街は変わらない
久しぶりの更新。京都での滞在を終えて東京に帰る。
大学時代の友人たちにあまり会えなかったという後悔はあるものの、それなりに充実した滞在となる。約一週間の滞在中に、私は何度「ぎやまん」と「Lush Life」(共に本ブログ内のリンク参照)に行くのかというほどその二店に通った。昼に「Lush Life」でコーヒーを飲みつつレコードを聴き、夜は「ぎやまん」で酒を飲みつつクダを巻く。幾つかのライブも非常に充実したものとなり、陳腐な言い方になるが、京都は私にとって癒やしの場となった。
不思議なものである。
以前、京都出身、現東京在住の大学の先輩と以下のような会話をした。
私が「京都で出会った人々には大いに感謝をしているが、京都という土地自体には微塵も感謝していない」と言うと、「それはお前がきちんと京都で暮らした証拠だ」と彼は言った。京都という土地には、観光雑誌で謳われるような魅力以上に、もっとおどろおどろしい負の側面が内包されている。よく言われる排他的側面のみならず、未だに根強く差別社会の現実も確固として存在している。それは、私のような余所者ですら感じた所である。一般に言われる「観光地として神格化された京都」には、私は常に強い懐疑の念を抱いていた。もっと有り体に言おう。私は京都という土地が嫌いであった。
途中で外国に行ったり東京で少しだけ暮らしたりはしたものの、実際私は約10年の時を、その京都という「嫌いな土地」で過ごした。それは、ピアノの師匠を筆頭にした「京都で出会った人々」に、私が並々ならぬ好意を抱いていたからに他ならないとは思っていたのだが、今回の一週間の京都での滞在中、私は図らずも京都という土地自体にも癒された。
皮肉な話だが、その快適さや穏やかな感情こそ、私が京都を離れた事の確かな徴し(しるし)のように思われた。
四条河原町の中途半端な喧騒、鴨川河畔の不自然な自然、住み慣れた北大路界隈の寂れた商店街。
それら全てを私は好意的に受け止めてしまった。
京都が変わった訳ではない。私の中で何かが変わったのだ。たった数ヶ月の間に。
それは、成長などという立派なものではない。しかし何かしらの変化ではある。
流れていく。
流されていく。
不安な気持ちになると同時に、私は少し愉快になった。
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コメント
いよいよ京都人やなあ。
そう、京都は「人間」そのもの、というか、もっと正確にいえば「都会化された人間」「都会人」そのもののような街なんですよ、俺が思うに。東京のほうが、よほど田舎くさい。いい意味で「人間的」です。
だから、俺は決して「京都が嫌いだ」とは言わない。京都が嫌いだ、というには、俺はあまりにも京都人であり、つまりは都会化された人間だからね。
そう思うと、ちょっと笑いたくなってしまう、というのもよくわかります。
投稿: torii | 2007年5月25日 (金) 23時30分
toriiさんへ
京都は「都会化された人間」「都会人そのもの」ですか。なるほど、結構納得しました。
中にいなければわからない事と、中から一度外に出なければわからないことがあるなあ、と改めて感じました。
投稿: ふくしまたけし | 2007年5月28日 (月) 22時46分