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2006年12月27日 (水)

喧嘩の相手は

日曜日の晩、テレビ番組「情熱大陸」を観る。

予てから好きな番組で、毎週楽しみにしているドキュメント番組であるが、今回の「情熱大陸」は、私が抱いていたその期待を、良い意味で大きく裏切られる出来であった。これまで幾度となくこの番組を鑑賞し、楽しんできた私であるが、今回の「情熱大陸」は、これまでに放送した「情熱大陸」の中でも3本の指に入る、いや、最も優れた放送だったかもしれない。少なくとも私にとっては。

毎回、有名無名を問わず興味深い人物を一人取り上げ、半年以上にわたる綿密な取材をもとにその人物を紹介していく「情熱大陸」。今回取り上げられたのは、忍足謙朗、50歳、国連職員である。

余りにも月並みな言い方になってしまう嫌いはあるが、その30分の番組に、私は、ひどく心を打たれた。

彼は現在アフリカのスーダンで紛争と貧困に喘ぐ民衆を経済的に援助している。その仕事は確かに素晴らしい仕事だ。誇りを持って全うするに値する仕事であろう。しかし、私が心を打たれたのは、もう少し違う所にあった。

彼は自分の仕事に酔わない。

国連やNPOなどの仕事に従事する人間達の中で私が時折違和感を感じるのは、その仕事に「酔ってしまっている」者達だ。良い事をしている、その事に酔ってしまう。それはある意味では仕方のない人間の業だ、とも私は思う。「褒めてもらいたい」という、如何ともし難い人間の欲が、「良い事をしている自分」を過度に外部に対してアピールさせてしまう。脆弱な人間の愚かな性質の一つだ。挙句の果てに、自分が援助を続ける相手を過剰に美化し始めたら、それは全て戯言だ。特に多いのは、障害者や貧困層に対する過剰な賛辞だ。「彼らはみな純粋だ。」「彼らは美しい。」こういった言辞には、正直に言えば反吐が出る。それは、立派な差別意識である。

街頭で署名活動やデモ行進を行う人々に、私は時に失笑を禁じえない。それは、彼らが無意識の内に過度にアピールする「正当性」ゆえだ。

行動を起こす事は、或る意味では何よりも大事な事だ。思っているだけではどうしようもない。行動こそが、美徳だ。その考え方には、私は半分は納得できるのだ。しかし、その行動が時に過剰なまでの自尊に繋がり、自負に繋がる。それは必ずしも美徳では、ない。所謂「良い人」を、私が信頼する事は少ない。

忍足氏に私が感動させられたのは、彼からは「良い事をしている」という自負が微塵も感じられなかったという事だ。そして目的の為にじっと据えられた、彼の根性の据わった眼力。彼は、目的の為ならば或る程度ダークサイドにもまわるだろう。どこまでもクリーンなイメージを保とうとする不甲斐ない政治家に見せたいほどの「信念」を、私はそこから感じ取った。それは覚悟である。それは決意である。

彼は「貧困」という余りにもスケールの大きな相手に喧嘩を売っているのだ。そして「差別」という相手にも。

貧困は永遠になくならないかもしれないし、差別は常に存在し続けるかもしれない。しかし、彼はそれでも喧嘩を売り続ける。きっと死ぬまでこの人はこうなんだろう、私は途轍もない憧憬の念と少しの羨望で、つい苦笑してしまった。口をついて出た言葉は一言、「すげぇ…」である。

今回の「情熱大陸」に苦言を一つだけ呈するのであれば、忍足氏の回は、30分ではいささか短すぎた。あと30分、ほしかった。過剰に道徳的な言葉も吐かなければ、格言めいた事も言わない彼は、或いは物語にはしづらいのかも知れないが、それでもあと30分はほしかった。欲張りな私の唯一の苦言だ。

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