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2006年11月

2006年11月29日 (水)

少し怖いけれど

見てきたものや聞いた事

今まで覚えた全部

デタラメだったら面白い

そんな気持ちわかるでしょう

答えはきっと奥の方

心のずっと奥の方

涙はそこからやって来る

心のずっと奥の方

(『情熱の薔薇』The blue hearts)

ブルハを聞きながら独りで飲んでいる。ブルハの前に聞いていたのはRandy Weston。共通点は「カッコイイ」という点。

これまでにちょこちょこアインシュタインの相対性理論の事を書いているけれど、相対性理論の一番面白い点は、上に挙げた詩のような事なのだ。今まで覚えた全部がデタラメになる。そうか、ブルハはアインシュタイン的だったのか、と勝手に帰納する。

最近よく遠くを見る。私はひどい近眼なのだが、それにプラス乱視まで混ざり、尚且つ近眼もひどくなってきたから。

ブルハはスピーカーの向こうから『Too much pain』を歌っている。とても好きな歌だ。

私はそれを聞いている。情熱を感傷に置き換えて。

思い出す

月明かりに濡れた

人気の無い操車場で

それぞれの痛みを抱いたまま

僕ら必死で分かり合おうとしてた

歯軋りをしながら

あなたの言葉がまるで旋律のように

頭の中で鳴っている

Too much pain

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2006年11月27日 (月)

12月スケジュール改訂版、1月も決まっているものだけ。

十二月のスケジュールに多少の変更・追加があったのと、新年明けて一月にライブが幾つか決まったのでお知らせいたします。

一月スケジュールの欄で、僕も書きながら若干興奮してしまったものがありますが、その辺は許して下さい。では、以下。

2006年12月

12月1日(金)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
vo:岩井繭子 pf:福島剛
メノモッソでまゆちゃんと。この日はお店の2周年記念日みたいです。おめでとうございます。時間に注意、8時からです。
20:00~start music charge:カンパ制

12月8日(金)祇園 pick up  tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:30~start  music charge:2000円

12月9日(土)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
pf:福島剛
月イチ恒例、ソロピアノ。最近はオリジナルナンバーもよくやってます。
21:00~start music charge:カンパ制

12月10日(日)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
vo:岩井繭子 pf:福島剛
昼間のグリニッジハウス。昼にジャズって良いですね。最近そう思います。
15:00~start  music charge:カンパ制

12月11日(月)北山 mojowest  tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/
sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 ds:古賀俊輝 pf:福島剛
毎月第2火曜は何があろうとmojowestで、このメンバーでやってます。と、言いたい所ですが、この日だけ第2月曜です。お詫びの気持ちをこめて、チャージはカンパ制です。お気軽にどうぞ。
20:00~start  music charge:カンパ制

12月15日(金)高槻JKカフェ
tel 0726-71-1231
http://www6.ocn.ne.jp/~officejk/cafe/jkcafe.html
三ヶ月に一回ぐらいのペースで出させてもらっています、JKカフェ。サックス黒田雅之と。
19:00~start  music charge:カンパ制

12月17日(日)岡崎ZAC BARAN tel 075-751-9748
http://www.secondhouse.co.jp/
tap:清宮悟 b:鶴賀信高 pf:福島剛
タップダンス祭りです。ジャズとタップダンスの融合。素晴らしいタップダンサーです。必見。
19:00~start  music charge:カンパ制

12月22日(金)祇園 pick up  tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:30~start  music charge:2000円

12月23日(土)藤ノ森カフェ・ド・ゴスペル
tel 075-643-7346
http://www.gospel-26.kyoto.walkerplus.com/
sax:黒田雅之 b:三木海斗 ds:田中健 pf:福島剛
伏見区藤ノ森にある広々としたカフェで、落ち着いたスタンダード・ジャズを。地下鉄沿線の方も京阪沿線の方も是非。
19:00~start  music charge:1000円

12月24日(日)堀川二条ホテル営業
tap:清宮悟 pf:福島剛
クリスマスイブはホテルでショーをやらせてもらいます。今月は清宮さんと二回も共演できて嬉しい・・・

12月30日(土)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
vo:須和龍一 sax:黒田雅之 pf:福島剛
今年の締めくくりは、こってり濃厚ブルースで。カツ丼の後にとんこつラーメンで締める、そんな気持ちでお越し下さい。
20:00~start  music charge:カンパ制

2007年1月

1月9日(火)北山 mojowest  tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/
sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 ds:古賀俊輝 pf:福島剛
毎月第2火曜は何があろうとmojowestで、このメンバーでやってます。新年1発目、元気よくいきます。
20:00~start  music charge:1500円with1drink

1月12日(金)祇園 pick up  tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:30~start  music charge:2000円

1月20日(土)深草ざぶざぶ
tel 075-642-6348
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zabuzabu/
vo:岩井繭子 b:鶴賀信高 pf:福島剛
現役バリバリにして伝説のドラマー「ケン坊」さんこと村上健三郎さんのお店です。雰囲気も料理も本当に素晴らしいお店です。是非。
19:30~start music charge:1500円

1月21日(日)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
sax:黒田雅之 pf:福島剛
グリニッジでお馴染みのサックスデュオ。手加減抜きでいきます。
20:00~start  music charge:カンパ制

1月26日(金)祇園 pick up  tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:30~start  music charge:2000円

1月27日(土)祇園 pick up  tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
vo:市川芳枝 b:椿原栄弘 ds:大江秀明 pf:福島剛
ついにこの日がやって来ました。僕が心より尊敬するシンガー、市川芳枝さんとの共演です。最高のボーカリストの魂の歌を、是非聴きに来て下さい。もう理屈じゃありません。
20:30~start  music charge:2500円

1月28日(日)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
ds:副島正一郎 b:椿原栄弘 pf:福島剛
椿原さんと2連チャン。「NEZOE」です。2~3ヶ月に一度、このピアノトリオで演奏するのは、本当に僕の喜びです。
20:00~start  music charge:カンパ制

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2006年11月26日 (日)

東京タワー ドラマ

数日前の話になるが、テレビドラマ「東京タワー」鑑賞。知人に録画しておいてもらったものを観る。

以前、リリーフランキー氏が書いた原作に関して、このブログでも賛辞を表した事がある。故に私がこのドラマを見るにあたっては、随分と期待は高まっていたのだが、全体的な感想としては、その期待を悪い意味で裏切られるような事はなかった。満足した、と言える。

優れた原作(大抵は紙媒体である)を持つ作品の映像化は、極めて難しい。失敗例は枚挙に暇が無い。西原理恵子氏の不朽の名作「ぼくんち」が実写により映画化された事があったが、私はその映画作品を観て、拭えぬ違和感と募る不満感から、力無く頭を垂れた事を覚えている。

そういった原作→映像化というものの陥りやすい失敗の一つの典型例は「切り貼り」という言葉で表す事も出来る。原作の中で印象的だったシーンを一つ一つ抜き出して映像にしていくという手法。この手法は、危険だ。

前後の文脈を無視して、その特徴的なシーンばかりを切り貼りしてしまう事により、物語の持つ特有の律動や流れが損なわれてしまう。これは非常にまずい。定められた時間のキャパの中で前後の文脈まで描ききれないのであれば、無理に場面を詰め込むのは良くない。私はいつもそう感じる。

今回のテレビドラマ「東京タワー」にも、多少そういった「切り貼り」的な悪い部分も見えた。そこに関してはいささかがっかりはしたが、それを凌駕するほどの素晴らしいポイントがいくつもあった。紹介していきたい。

一つは、主人公である「まーくん」を演じた大泉洋の演技の素晴らしさであった。これは触れざるを得ない。以前、イッセー尾形との即興二人芝居を観た時に彼の役者としての魅力は垣間見たが、今回改めて堪能した。朴訥とし、一見無表情な中で蠢く様々で苛烈な感情を、大泉洋は静かに、そして鮮やかに表現した。コミカルな面も含めて、所謂「ハマリ役」であったなという印象である。私は、すっかり大泉洋のファンになってしまった。良い役者である。

そして、やはり彼以外の役者達の素晴らしい演技。オカン役に田中裕子(私の憧れの女性でもある)、オトン役に蟹江敬三。腑に落ちるという言葉が似合う、素晴らしいキャストである。しかし、彼らの役者としての能力は凄い。

田中裕子の素晴らしさは言わずもがなである。慈しみに満ちた母の笑顔、寂しい横顔の繊細さ、コミカルな面白み、そういった全てを過剰にならずに、しかし溢れ出るかのように演じきる。感服。そして可愛らしい。改めて惚れ直す。間違いなく日本最高クラスの女優の一人である。今回は広末涼子が共に登場していたが、並んで演技した時にはやはり差が見える。これは私が田中裕子ファナティックであるからだけではあるまい。

蟹江敬三の好演技も光った。粗暴なだけではない、繊細さを備えた父の不器用な愛情を表現してくれた。白眉はオカンの遺影を抱きながら嗚咽と共に漏らす台詞、「……ええ女やったっ……!」。家庭を省みないヤクザな男のふと見せる限りない愛情である。

つくづく、私はこのテのドラマが好きだ。「北の国から」も大好きであるし、家族ドラマというのが私の好みなのだ。

家族とは、果たして何なのだろうか。

「東京タワー」を観た事により、私はその事を再び考えた。

とても良いドラマであった。

仕方ない、白状する。

落涙した。

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2006年11月23日 (木)

今日、11月23日

深草にて、本日はライブでございます。興味のある方は、どうぞいらっしゃって下さい。

深草ざぶざぶ
京阪深草駅西口から徒歩10秒
19:30スタート
チャージ1500円
ボーカル岩井繭子
ベース鶴賀信高
ピアノ福島剛

素敵なハプニングがあるかも知れません。ないかも知れません。宜しければ是非。

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2006年11月22日 (水)

再び、檸檬

『檸檬』の続きはもう書かずとも良いか、と思っていたが、やはり再び書く。コメントを頂いたからだ。私の思考回路は相も変わらず単純だ。

さて、件の『檸檬』であるが、私が初めて読んだのは高校一年生か二年生の頃であった。簡潔に言って、衝撃を受けた。その後、高校の国語の教科書で再び読んだが、やはりその衝撃は色褪せる事はなかった。

芥川が表現したような「ぼんやりとした不安」や梶井が言う「えたいの知れない不吉な塊」、それは私にとっても共感の出来るものであった。私は漠然といじけていた。うじうじと貧窮していたのだ。

作中を貫く無気力。そして無意味な物にこそ心を惹かれる主人公の心理。私がこの作品に惹かれた要因の一つはそこだ。

常に襲って来る死の恐怖。発熱した状態で、冷たい檸檬に触れた時の心地よさ。倦怠と発熱が快感の輪郭を明確にする。そして全てを無へと帰させる妄想的快感の爆発。理屈を越えて、ダイレクトに私の心に響いてくる小説である。

梶井が病死したのは、彼が三十一歳の時。もしあと十年生きていたら、どんな作品を書いていたのだろうか。彼の陰鬱でシュールな世界観は、さらに成熟し、洗練されていったのだろうか。

ちなみに前述の京都「丸善」には、画集の上に檸檬を置く、という悪戯をする輩が年に何人かいたらしい。無論梶井ファンの仕業に違いない。

恥ずかしい過去であるが、私も檸檬を置いた事がある。

丸善は、もう無い。

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2006年11月21日 (火)

ふと、檸檬

別に何かの義務のようにしてこのブログを更新している訳ではない。無論、単なる愉しみとして、或いは私自身による自らへの慰みの一環として書いているに過ぎない。

けれど、こうして空白を前にして、さあ、何を書こうかな、と一瞬思案する時がある。

今日あった事を書いても面白くならなさそうな時、そういう時の方が多い。私の日常はあくまで日常であり、決してドラマティックなものではない。凡庸さの象徴と言っても良いような物かもしれない。あるいは単にその日の日常の事を書きたくない時、そういう時だってある。

そういう時に、「さて何を書こうかな」と思案する。沈黙しても良いのだけれど、私は日々の習慣的行為というものが比較的好きなのだ。ブログを書くことも、習慣的行為に近い。

Habit is a great deadener. 習慣は偉大なる弱音機である。habitとdeadは結びつくのだよ。あまりにも不確かなこの世界において、習慣的行為は何らかの確かさを与えてくれるのだ。ああ、詭弁。

さて、今日「何を書こうか」と23秒ほど思案した所でパッと脳裏に浮かんだのは、ある小説について書こうか、という事。梶井基次郎の「檸檬」。

何故それが脳裏に浮かんだのかはわからない。けれど、ふと浮かんだ。

この小説が、私は好きだ。

つい先日壊されてしまったが、京都河原町には「丸善」という本屋があった。小説の主人公である男はその丸善に入り、画集を何冊か散乱させた後に、その画集の上に一個の檸檬を置いて店を後にする。すると男の心に巣食っていた憂鬱の塊のようなものは不思議と立ち消え、男は檸檬が爆発して木っ端微塵になった丸善を夢想しながら京都の街を再び歩く、という粗筋の小説だ。

その小説になぜ私が心を惹かれたのか、今となってはわからないが、今日は何故か、その事を書こうと思い立った。

でも時間になってしまった。

詳しくはまたいずれ。

やってこない次回に。

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2006年11月19日 (日)

定例会(独り散歩in雨)

雨が降っていたので、雨合羽を着込んだ上に傘を差して散歩に出た。近所の賀茂川まで。川が増水している。

途中で近所の酒屋「サカグチ」に寄る。店は閉まっていたが、自販機は稼働中。ビールもどきの「その他雑酒」を購入。500mlのものが一本150円。多分、日本一安い自販機だ。ついつい二本購入してしまう。

程なくして賀茂川のほとりに到着する。無論人影はない。川を、水の流れる音だけが、しんしんと響き渡る。時折、背後を車が通る。ライトの灯りが背中に少し感じられる。

私は買って来たビールもどきを取り出し、プルタブを起こす。一口、含む。

不味くはない。決して美味くはないが、不味くはない。それで十分だ。

幾つかの日々の後悔を思った後、ぼんやりと楽天的な妄想に浸る。今日は「私は空を飛べる」という内容で妄想を少々。

I can fly.

さて、色々と絶望してきた。

嘘だ。

単に酩酊してきただけだ。

音楽の事を考えた。

このままで良いのだろうか。いや、良くはないな。悪くもないんだろうが。

川底の魚が私に毒づいた。

「お前、みっともねえな、カッコわりいぜ」って。

私は川魚に許しを請うた。

「あんまり本当の事ばかり言わないでくれ」と。

川魚は私を一瞥してから、無言の内にどこかへ消えた。

さよなら。

夜空は黒い、と私はずっと思っていたが、今夜空を眺めていたら、ほんのり茶色が混じっている事を発見した。

私は、ますます絶望してきた。

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2006年11月18日 (土)

おかえり

以前このブログに書いた、私の愛車ミヒロ号(原付)が、約二週間ほどの入院を終えて帰宅した。

退院のその日、私は百万遍のバイク屋まで彼女を迎えに行ったが、久しぶりに逢う彼女はまるで以前とは別人のように生き生きとしていた。

働きづくめで化粧などした事がなかった彼女。体のあちらこちらにガタが来ていたにも関わらず黙って走り続けた彼女。私がかけ続けたそんな苦労が、腕利きのバイク職人によって綺麗に癒されていた。

丁寧に礼を言ってからバイク屋を出た。久し振りに跨る彼女。前後輪ともしっかりと空気圧が調整されている為、乗った瞬間に違いは察知出来る。

キックを蹴ってプラグに引火させる。エンジンの中でガソリンが絶え間ない小爆発を続け、動き出す。外れかけていたマフラーを直してもらった為、音も格段に静かになっている。

慎重にアクセルを開けると、彼女は明快な反応を示しながら走り始めた。

私は彼女に「大丈夫かい」と尋ねた。

彼女はクスリと微笑んで「大丈夫よ」と答えた。

「ただね、これからはもっと私の事大事にしてよね。酔っ払って私に乗るなんて危なっかしくてしょうがないわ」

彼女は少し怒ったような口調でそう言った。

「わかった。大事にするよ。もう二度と酔っ払って乗らない。時々メンテナンスにも出すよ」

私は申し訳ない気持ちでそう答えた。

「簡単に廃車になんかならないんだから。私、結構丈夫なのよ。あなたがきちんと私を愛してくれるならね」

私は返事の代わりに溜め息を一つついた。

顔に吹き付ける風が冷たい。京都の冬はすぐそこまで来ていた。暗くなったばかりの空を見上げると、既に幾つかの星が浮かんでいた。

あれがオリオン座、あれがカシオペア座。

視力の良い君は以前私に教えてくれた事があったっけ。もうそんな季節だ。

「おかえり」

私は彼女に言った。

「ただいま」

柔らかく、彼女は微笑んだ。

遠くに、月が浮かんでいた。

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2006年11月15日 (水)

音楽用語(俗語編)

ロイクな音楽はやっぱりネーカが悪いよな。今の流行りはテンラー辺り?コイタにゴイスーなの連れて来なきゃなんねえけど。でも、これならツェーマンぐらい稼げるんじゃねえか?

何の事やらわからない呪文のような文章を冒頭に書いた事を、先ず詫びよう。

音楽用語、というものがある。ミュージシャン達が、自分達の意思疎通を円滑にするために生み出した用語だ。殆どはイタリア語に由来していると言う。クラシック音楽用語から派生したものが殆どであり、それなりに正式なものである。

いくつか例を出す。

・クレッシェンド―――段々音を強く(大きく)していくこと。

(使用例)

そこのBメロからは段々クレッシェンドしていく雰囲気にしたいなあ。

・リタルダンド―――徐々にテンポがゆっくりになっていくこと。

(使用例)

エンディングはリットしていく(リタルダンドすること)感じにしよっか。

などなど、である。

こうした音楽用語は、私も音楽に日々携わっていく中で自然と覚えた用語であるが、それとは別に、音楽用語の俗語編、つまり「裏」音楽用語なるものがある。冒頭に示した意味不明の文章も、そういった用語を用いた文章である。今日は簡単にそれを紹介しよう。

《基本編》

裏返しにする、これだけである。

・ジャズ→ズージャ

・金→ネーカ

・食事(メシ)→シーメ

御理解頂けただろうか。

《応用編》

数字をアルファベットで言う事がある。そしてそれをドイツ語読みする。

1はC、つまり「ツェー」と読む。5はG、つまり「ゲー」だ。

今日のラーギャいくら?ああ、ゲーセン。

といった場合には、「今日のギャラはいくらだったのか?ああ、5000円だよ」ということだ。ちなみにツェーマンは、1万円。更に応用として、40万円、という場合には「エフジュウ」という、最早言語の規則性など無視した使用法をする。少々難しくなってきたが、わかって頂けているだろうか。

《番外編》

楽器の呼び方も特殊だ。様々な楽器を妙ちくりんな呼び方で呼ぶ。使用例は以下

・ピアノ→ヤノピ、時折「鍵盤」という言い方も。

・ベース→スーベ、或いはウッベなど。

・ドラム→タイコ

・トランペット→ラッパ

・サックス→ラッパ、なぜかこれもラッパ、である。

《更に上級編》

基本編の「引っくり返す」と番外編の楽器名を組み合わせて、

ドラム→コイタ(タイコ、の逆ね)

などといった複雑な使い方もある。

では、冒頭の文章の翻訳。

黒い(黒人の)音楽は、(受けが悪いので)あまり稼ぎにならない。今の流行はラテン音楽辺りじゃないだろうか。ただ、その場合ドラムに凄腕な人材を連れてこなければならないが。そういう風にやったら一日1万円ぐらいは稼げるんじゃないか?

といった具合である。ちなみに文章の内容は私の意見ではない。無理やり「ズージャ用語」を羅列したら、そうなってしまっただけだ。

さて、ここからが本題である。

正直な所、私はこの「ズージャ用語」が好きではないのだ。

えー、ちゃんと言おうよ。きちんと日本語喋ろうよ。そう思っていた。いや、今も思っている。

にも関わらず、最近ふとした瞬間に、無意識にこの「ズージャ用語」を使ってしまっている時があるのだ。

―――お前、どんな音楽好きやねん。

―――そうですね、どっちかっていうとロイクーなやつが・・・

ええっ?と自分の口を疑う。今何つった、俺?と狼狽する。そしてその瞬間、自意識過剰なだけかも知れないが、何だかとても気恥ずかしくなる。

一生懸命ミュージシャンの仲間入りをしようとして自分は背伸びをしている。

勿論私にはそういった部分はあるが、それが言葉の面で見えてしまうとたまらなく恥ずかしくなるのだ。ああ、嫌だね、自意識過剰。このブログを読んで下さっている音楽関係の方で、私と同じように感じる方はいるのだろうか。

もう一つ、私は前後不覚になるまで酔っ払うと、何故か意味のわからぬ英語を喋りだすらしいのだ。最近、人から聞いた。私が英語を喋りだすと危険なサイン、として捉えてくれている友人もいる、との事。

何だ、それは?外人コンプレックスなんだろうか。私も全く記憶にない事なので、なんとも言い難いが、そうなのかも知れない。

またある友人は、私が親鸞(浄土真宗の開祖)とキリストの話を始めると、それが酔っ払ってきた(泥酔してきた)合図だ、とも言った。これは自分が無宗教であることに対するコンプレックスの表れなんだろうか。

つまり、「ズージャ用語」を無意識に使ってしまう私は、間違いなく何かしらのコンプレックスを抱えている訳だ。嫌だね、この劣等感の塊。そんなもんありませんよ、といくらシラを切ってみた所で、私は劣等感の塊なんだろうな。

言葉というのは面白い。ある意味では話し手の内面がダイレクトに出てくる。要はそれがストレートなのか屈折しているのか、というだけで。

とにかく私は、随分と恥ずかしい。恥の多い人生を送っている、真っ最中であります。

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2006年11月14日 (火)

趣味は音楽鑑賞

本日の全ての仕事が終わって、一息つくためにジャズ喫茶「ラッシュライフ」へ。レコードを聴きながらコーヒーを一杯だけ飲んで帰って寝よう、そう思っていた。何故なら今日はまたしても風邪なので。明日も朝から早いし。

が、店を出て帰路に着いたのは午前1時。全てラッシュライフのマスターが悪い。Eubie BlakeとFats WallerとEarl Hinesを聴いてゴキゲンになって、さ、ぼちぼち帰ろうかなと思った所で鳴り出すErroll Gerner。帰れなくなるじゃんか、そんなのかかったら。

その後は立て続けにJames P JohnsonからBilly Strayhornの雪崩式。フィニッシュホールドは得意のRandy Weston。

完敗ですよ、もう。ぐうの音も出ませんよ。あーあ、素晴らしかった。

さて、今日は音楽を聴く、という事に関して少し真面目に(普段は不真面目なので)書いてみる。

まず初めにわかりきった正論を一発。

音楽の聴き方は千差万別。本人が愉しめる形で愉しんで聴くのが一番良い。

当然ですね。反論の余地もない。全くもって正論だ。

人それぞれの愉しみ方があって当然だ。

だからね、それじゃ駄目なんだ。

戦争はいけない、殺人はいけない、と正論を並べ立てても絶対に戦争も殺人もなくならない。それと一緒だ。そういう正論は自己満足的な人権屋さんに言わせておけば良い。本当に戦争や殺人を憎むのであれば、正論を吐くのは見当違いも良い所なのだ。

ちょっと話が逸れたな。要は正論に頼りすぎるのは良くないという事。

閑話休題。音楽を聴くという事について。

音楽を聴く事によって「そこから何かを得る」目的があるという前提で話を進めます。

こうした前提がある以上、音楽を聴く事にはある水準以上の集中力を必要とする、というのが私の意見である。これが今日の話の本筋。

喩えば、ジャズミュージシャンを志す者(乃至ジャズミュージシャン)がジャズを聴く際、かかっているレコードに対しては可能な限り神経を研ぎ澄まさなくてはならない。理由は我々凡人の「耳の悪さ」である。(そうそう、私を含めた凡人を相手に書いてますから、天才の人は以降読まないで下さい)

我々は、耳が悪い。当たり前だ。人間なのだから。一枚のレコードに収められている真の情報量を100とするならば、何気なく聴いていたら1も聞き取れない。これは間違いない。

必死になって全神経を傾けて聴いた時で、聞き取れる情報量はやっと2から3ぐらいになるのではないだろうか。それぐらい我々人間の感覚は鈍感だ。一回聴いただけで微に入り細に到るまで記憶する、モーツァルトみたいな天才も稀にいるが、これは例外中の例外。もっと凡庸な話だ。

しかし、ここには微小な差ながら、確実に差が存在する。1%未満と3%、差は歴然だ。これを日々の積み重ねとすれば、何気なく音楽を聞き流している人間と神経を研ぎ澄ましながら聴いていた人間とでは、一年もすれば得た情報量は大きく変わる。

音楽の修練は大きく分けて四つに分類される、と私は考えている。

一つはplay、演奏する事、遊ぶ事。

次にfeel、感じる事。

更にthink、考える事。思い悩む事も時には必要だ。ブルースリーの「考えるな、感じるんだ」という言葉は、時折当てはまらないと私は思っている。

そして上に挙げた三つ全てに先立つもの、listen、聴く事。

まず「聴く」事ありきなのだ。それは共演者の出した音を聴く事でもあり、自分の出した音を聴く事でもあり、聴衆の声を聴く事でもあり、無論レコードを聴く事でもある。

取り留めもなくなって来たし、長くなってきたので纏めよう。

集中して音楽を聴いてみれば、かなり色んな発見がある。最近私が気付いたのは、Thelonious Monkの紡ぐサウンドの裏側にJames P Johnsonのストライドピアノが聞こえてくる、という事実。モンクはずっと好きで10年ぐらいは聴いてきたが、やっとその事実に辿り着いた。つまり私はモンクについてはまだまだ知らない事だらけだという事だ。ジェームスPについても知らない事が多い。それを知らなくてはモンクはわからない。多分この調子で聴いていけば、10年後にはまた再び私はモンクについて新たに気付く事がある。全ては積み重ねだ。

感性や独自性といった安易な言葉で逃げ道を作る人をよく見かけるが、それはあまりにも傲慢で且つ危険だ。

ジャズは伝統音楽であり民族音楽である。黄色い余所者の私はもっと深く頭を垂れ、ジャズを愛していかねばならない。余りに一方通行な片思いも、しつこく思い続けければいつかは成就するかも知れない。しないかも知れない。

彼女にこちらを振り向かせる事が出来るかどうかはわからないが、彼女に偏執狂的な愛情を注ぐ事ならば出来ると言い切れる。好きだから。

よし、変態になろう。

本日の結論はこれだ。

ちなみに本日11月14日は北山モジョウエストでライブ。変態になれるように頑張ります。同様に変態になりたい人は来て下さい。一緒に変態になりましょう。

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2006年11月12日 (日)

餃子から人望へ

夕方に起きるという、最低な休日を過ごす。昨夜の記憶はあやふやだ。後悔する。

一時間ほどピアノを弾いて指を動かしていると、何故だか知らぬが急に餃子が食いたくなる。近所の「王将」に自転車で向かう。寒さがこたえる。

「王将」で独りで回鍋肉定食と餃子を食らう。キャベツが美味い。

帰りに賀茂川のほとりで漫然とするが、寒さに負けて10分ほどで退散。何の脈絡もなく『最強伝説黒沢』の名台詞「人望が、ほしいっ…………!!」が頭をよぎる。私も人望がほしい。

今から情熱大陸が始まるので、それを鑑賞する。今日は左官屋の話らしい。愉しみである。

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2006年11月 9日 (木)

御乱心

昨日の事です。

福島剛くん(27)は、夜間、たいそうお酒を飲んでいたそうなのですね。

彼が言うには、記憶がない、との事ですが、彼は酔っ払った挙句、何人かの人に電話をかけたり、意味不明なメールを送ったりしたらしいのです。

翌朝の今日、起きてから携帯電話の発信履歴、またメールの送信履歴を見て、彼は愕然とし、「死ねっ・・・」と独り言を呟いたのだとか。

彼は、携帯電話に、呼気の中に濃度の高いアルコールを検知した場合には全ての機能が停止されるような、アルコール検知システムが付いてほしいと切に願っているようです。

また彼は先ほど「違う、迷惑電話や迷惑メールをしたのは僕じゃない、僕の中の人だ」と、半狂乱気味に叫んでいましたので、後頭部を鈍器で殴っておきました。

電話されたり、訳のわからぬメールを受け取って迷惑した方々へ。

この場を借りて、私が彼の代わりに謝っておきますから、どうぞ広い心で見てやって下さい。彼はちょっと人より頭が弱いだけなのです。

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2006年11月 8日 (水)

節目

実は本日は僕の27歳の誕生日。なので、一日休みにしました。勿論勝手に。

今から掃除と洗濯をしよう。それが終わったら料理をして。腹も満たされたら、買ったばかりの自転車で少し散歩をして、帰って来たらほんの少しだけお酒を飲んで、寝よう。

また明日から忙しくすればいい。今日はもう、忙しくしない。

27歳は、きっと色々変わる年になる筈だ。内面的な変化は望めるのかどうかわからないけれど、少なくとも取り巻く環境は変わる筈。それも、かなり劇的に。

変化に負けないように。落ち着いて、一つずつこなしていけば良いんだ。

気持ちを新たに、また一年間頑張ります。

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2006年11月 6日 (月)

訃報→腐乱→再会

愛車のミヒロ号(原付)が天に召されました。

山科から五条坂を越えて家に帰ろうとするその途中、まるで眠るように、息をお引き取りになられました。

心臓マッサージを施すかのように何度もキックをしてエンジンをかけようとしましたが、残念ながら彼女はこの現世(うつしよ)には還ってきてはくれませんでした。

傍らを時速100キロ近いスピードで車が何台も通り過ぎていきます。私は半ば呆然としながら、最早鉄の塊と化した彼女を押しながら五条坂を登ります。これまでの彼女との数え切れない程の想い出をぼんやりと想い浮かべ、そして彼女には求めるばかりで碌に何も与えてやれなかった事を心底から詫びました。半年に一回ぐらいはメンテナンスをしてあげれば良かった、本当にすまなかった、と彼女に詫びました。

途中で私は嘔吐しました。胸の奥底からやってくる激しい自己嫌悪が、私に強烈な嘔吐感を誘い、国道1号線の傍らに私は吐寫物を撒き散らしました。惨めな気持ちで一杯でした。

バイク屋に電話をかけ、彼女を引き取りに来てもらうように頼みました。電話をかけてから数十分後に、バイク屋は軽トラックでやって来ました。愛想の良い、けれど卓越した技術を持っているだろう事は想像に難くない中年の男性が、彼女を一瞥した後、簡単にキックやセルスイッチを弄んでから、私に向かって苦笑いを浮かべました。その苦笑は何よりも多くを物語っていました。私は、彼女と永遠の別れをする覚悟を決めました。

家に帰ると、数日前に作ったカレーが、異臭を放って腐っていました。食べ物を捨てるのが嫌いな私も、これは流石に捨てざるを得ない、と思い、まだそれなりの量が残っていたカレーをビニール袋にあけ、更に上からもう一重、二重になるようにビニール袋を被せて捨てました。

私の傲慢な欲求に逆らうようにして、世界は回っている。全ては意図の外だ。私はいささか誇大で過度な被害意識と自己嫌悪にかられ、なかば呆けたようにしておりましたが、その倦怠と無気力の中でふと、この一連の出来事を文字に記そうとこのブログを書き始めました。文字を書く事で自らを慰めようとしているのです。自己嫌悪はいつの間にか、腐ったカレーよりも更に強い悪臭を発する自己憐憫へと変化していたのです。

と、その時です。それは、これを書いているまさしく「今(或いはついさっき)」です。私の携帯電話がけたたましく鳴りました。着信を告げる黒電話のベルの音を擬態した電子音が鳴り響きます。

電話口に出たのは、先程のバイク屋の男性でした。

彼女を引き取ってから、その今際の際の原因究明をするべく司法解剖、つまり分解をしていたら、心停止の原因が判明し、そこを多少いじった所、再びエンジンがかかった、と言うのです。つまり、蘇生に成功した、と。

私は一瞬自分の耳と、そして彼の言葉をも疑いましたが、それはどうやら事実のようであるのです。

但し

と彼は付け加えました。ミヒロ号は既に満身創痍であり、それら全ての傷を治療して乗るならば、一万五千円ほどかかる、いずれにしても残り寿命は永くないのだし、それだけの金を彼女に注ぎ込むのは、無為になる可能性もある、と。

私は躊躇しませんでした。

彼女を治療し、そして再び乗れるようにしてほしい、と訴えました。実際私には今現在、一万五千円もの金はありません。けれど何とか払います、と彼に懇願し、延命治療を施してもらう事にしました。

私は再度、彼女と生活を共にする事が出来るのです。私は誓いを新たにしました。

これからは、きちんと大事に乗ります。

飲酒運転は二度としません。

そして、あなたが本当の天寿を全うするまで、私はあなたの傍にいます、と。

この文章を書き始めた時は、「訃報」のタイトルで書き始めました。しかしそれは訂正しなければなりません。彼女は蘇生し、復活したのです。もう一度、私は彼女と歩んでいけるのです。

さて、金をどうしようか。

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2006年11月 5日 (日)

凡庸な天才

本日は柔道(と少しだけジャズ)の話題。興味のない人は飛ばし読みで宜しく。

昼間、テレビにて柔道の学生団体体重別選手権の決勝戦を観戦する。国士舘大と東海大による決勝戦。試合自体は体重別ということもあり、軽量級から重量級までバラエティ豊かな試合展開があり、それなりに楽しめるものであった。結果は国士舘大が4-1で勝利。しかし、そんな結果云々を書くために今日は書いている訳ではないのだ。結果を知らせたいだけならば、スポーツニュースサイトのURLでも貼ってお茶を濁しておけばいいのである。

本日書きたいのは、優勝した国士舘大のエース、石井慧という選手について。

ご存知の方はご存知かもしれないが、この石井選手、今年の全日本選手権(無差別級で「柔道日本一」を争うトーナメント戦)において、19歳の若さで初出場初優勝、一躍「時の人」となった柔道選手である。つまり現時点での日本チャンピオンである訳だ。私も名前だけは噂に聞いていたが、不幸にも彼の試合をこれまでに観戦した経験が無く、今日、初めて彼の試合を見る事となった。

見ていて驚いた。石井選手、彼には突出した柔道センスというものは、無い。彼の名誉もあるだろうが、私は今から彼に最大限の賛辞を送るつもりである。もう一度言う、彼には天才的な柔道センスは、無い。

これまでの無差別級のチャンピオン達は皆、類稀な柔道センスを持っていた。いや、無差別級に限らない事かも知れない。後世に名前を残す柔道家達は、非凡な柔道センスを持っていた。

古賀稔彦の背負い投げは、芸術の域にあった。全盛期の谷亮子の種々の技も素晴らしいキレがある。井上康生が調子の良い時には、彼が釣り手と引き手を持つだけで内股が一閃される。そして、現在日本柔道界を牽引する存在である鈴木桂治、彼こそはまさしく柔道センスの塊である。

いささか分かりづらい言葉で一方的に柔道センスなるものを定義してしまった感がある。ここで、私が言う柔道センスとは、

・人間の重心がどこにあるのかを、瞬時に、そして感覚的に感じ取り

・それに対してどの方向からどういった力をかければ相手の重心は不安定になるか、という力学的判断力

・また、それらの目的に向かって瞬発的に力を爆発させる、いわば体の「キレ」

・その力の爆発、つまり筋肉の緊張を最大限に効果的にする為の弛緩能力

細かい事を言い出せば他にもいくらでも柔道センスの要素となるものはあるのだが、大雑把にこの4点。そして、この4点は当然、立ち技寝技どちらにも当てはまる要素である。

驚くべきは石井慧、彼の試合を見るに、これらの能力において何か突出したものがあるとはとても思えなかったのだ。これは、彼がまだ若いから、とかそういった理由ではない。若くて荒削りな柔道をしている段階では、むしろこれらのセンスは余計に見ている側には伝わるのだ。

しかし、何よりも大事な一点。彼は「強かった」。それも圧倒的に。

本日私が見た試合では、綺麗な一本勝ち、という訳ではなかったが、終始試合のペースは石井にあった。先にも述べた様に、それはお世辞にも巧いと言える試合運びではなかった。組み手争いも、さほどこだわらない。無理のある姿勢からの技もいくつか目立った。

しかし、「強い」。圧倒的に。

私はなぜ彼がかくも強いのか、戸惑った。強いと思える要素がこれといって見当たらないにも関わらず、圧倒的に強いのだ。それは何かの手品のようであった。

しかしすぐに謎は解けた。解説者が言った一言である。「彼は今、間違いなく日本で一番稽古を積んでいる選手である」と。

なるほど、全て合点がいった。そうか、彼の強さを支える秘訣は、その異常なまでの稽古量か、と。

しかし、かくも凡庸なセンスを持った人間が、これほどまでに「強く」なるためには、果たしてどれほどの稽古を要するのか、と。興味を持った私は、インターネットで彼の名前で検索をしてみた。それによってわかった彼の稽古量。

「国士舘大の稽古のほか、午前中は警視庁、夜は明治大に単身出稽古、その後はウエイトと平均睡眠時間4時間半という稽古漬けの日常を送っているという。」

これはとても常人では考え難い稽古量である。オーバーワークと揶揄する人間が出てきてもおかしくないほどの量である。なるほど、そこまで稽古を積むか。素晴らしい。それだけの稽古量に裏打ちされた彼の「強さ」は、困難によって築き上げられたものであるがゆえに、揺ぎ無い。陳腐な言葉で形容してしまえば、抜群の安定感である。

私はふと、ジャズサックス奏者、ジョン・コルトレーンの事を思った。石井慧とジョン・コルトレーンは、過剰なまでの努力により成し上がった人間として、共通点が見出せる。

ジョン・コルトレーンは、その膨大な練習量により、どんなミュージシャン達も到達し得ない頂へと飛翔した。卓越した音楽センスを持った訳ではなかった彼が、他のどのミュージシャンよりも高い天空へと翔んだのである。石井慧、彼もまたコルトレーンのように飛翔するのだろうか。

いやはや、しかしとんでもない逸材が現れた。センスの有無という問題を、全て努力によって解決する石井の姿は、間違いなく井上康生、鈴木桂治という日本の両エースを脅かす存在になる(或いはもうなっている)。

井上、鈴木、何十年に一人の天才と言われてきた君たちの出番はまだまだ終わっちゃいないのだ。石井慧という素晴らしい手本のような柔道選手が現れた。

早く、戦列に戻れ。

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2006年11月 4日 (土)

復活の兆し

やっと体調もマシになって来たかな。相変わらず咳が止まらなくはあるが。ここ数日間の無理矢理食って無理矢理寝る、徹底した怠惰な生活が効を奏したと考えていいのだろう。

さて今日のライブは、久し振りのソロピアノ。前もってアレをしよう、コレをしよう、と決めていた事もあったが、本日の気分によりそれらは多少変化している。下拵えのような事を暫く自宅でやってから、本日のメニューを決めよう。

色んな意味で、音楽は料理に似ている。

本日のソロピアノのライブは、夜21:00から、京都木屋町はメノモッソで。どうぞお立ち寄り下さい。

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2006年11月 3日 (金)

極上のエンターテイメント

昨日に引き続き風邪が治らずに、家で鬱屈と過ごす。

するべき事もたっぷりあるこの時期に何故、と不愉快になるが、諦めて「食って寝る」生活をする。

久し振りに夕方からテレビを見る。本を読みながら見ているから、ニュースはあまり頭に入ってこない。七時になるとバレーボールの国際試合が始まる。

一語で言えば、「酷い」。

バレーボールという競技自体は好きだし、試合を見るのも好きだが、テレビ局の思惑によって脚色されたその下劣なショーは、まさしく視るに耐えない。放送開始時には、訳のわからぬアイドルが下手糞な歌を歌いながらコート上を猿のように動き回る。其処は君達の舞台ではないぞ、と心中で毒づく。あまりに不愉快なのでチャンネルを変える。(←ちなみに放送局はまたしてもTBS。もう君たちはスポーツを報じてはいけない)

回していたら、野球の日米対決がやっている。こちらに視線を落ち着ける。しかし、あまりに対照的だ。

いつでも野球はバカ騒ぎをしない、という訳では全くないが(事実、先のWBCはバカ騒ぎの一種だ)、今回の日米野球は余りにも静謐だ。異常なほどだ。

それは言い換えれば、両チームとも過剰なまでに「マジ」だと言ってもいいかも知れない。えっ、コレって一種の親善試合みたいなもんじゃねえの?と私も自らの目を疑う。

勝負を度外視したエンターテイメント的な勝負、という良さが親善試合にはある。例えばオールスター戦。松坂が清原に対して全球ストレートで押し通すような勝負。これは通常のシーズン中ではまず見られない、極めて上質なエンターテイメントの一例だ。そういったものが、無いのだ。まるでシビアな一勝を奪いにいくようなトーナメント制の高校野球のような独特の緊張感。私は逆に違和感を覚えてしまう。

牽制球でランナーを差す。バントもする。緻密なサイン。大雑把で当たり前という認識は微塵も見えない。

良いぞ良いぞ。面白い試合だ。やはり真剣勝負に勝るエンターテイメントは無い。

アメリカは、WBCで日本に負けたのが余程悔しかったのだろうか。確かにあの時は明らかに本気ではなかったものな。でも今年は本気だ。こんな日米野球は初めて見た。

只今六回裏、アメリカの攻撃中。スコアは3対1でアメリカがリード。いやはや、実に面白い。引き続き観戦します。

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特殊から一般へ。そして混沌へ。

太陽って、ムチャクチャでかいんだって。太陽の質量は、地球の33万倍。っていう事は、質量=エネルギーだとすれば、太陽の重力は地球の33万倍?誰か詳しい人、教えてくれ。

いずれにしても、数字の細かな部分は別にして、地球より太陽の方が遥かに膨大な重力を持つのは事実。それぐらいべらぼうに強い重力を持っていたら、時間だの空間だのが(つまり時空が)歪むんだろうか。バカなのでよくわからん。

あのね、僕はこれまでずっと自分は三次元でしか生きてきていないと思っていたわけよ。急に四次元と言われてもよくわかんないわけね。ドラえもんのポケットが四次元なんでしょ?だから空間は無限に広がっちゃうワケ?じゃあ空間は光速cに近い速さで動かなきゃいけねえじゃん。どういう事?

特殊相対性理論を適当に終わらせて一般相対性理論に入った途端にサッパリわからんちんになっております。大体ね、数式がわからん。この間微分積分の基礎は、友人ベーシストに教えてもらったが、三角関数がわからん。サインコサインタンジェントって江頭2:50のギャグじゃねえのかよ。

高校生の頃に使っていた数学の参考書など、いらない人は僕に下さい。あとは僕に数学を教えられる人募集中。馬に芸を教える事の3×(10の8乗)倍ぐらい難しいですが、根気よく教えて下さい。今日は、ちょっと多目の風邪薬を、ちょっとキツめのお酒で流し込んでしまったので、軽くラリってますよ。

今から嘘をつきます。

みんな大好きです。

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2006年11月 2日 (木)

模様替え

風邪をひきました。

何だかここの所体調が悪いなあ、咳が断続的に出るし、体はだるいし、何だろうなあ、と思っていたら風邪だったのですね。

けれど、このニフティのココログ、色んな部分でのグレードアップがあったので、それに乗じて私も自らのブログのデザインをいじる。アクセスカウンター(右上の、今14000弱の数字を表示しているやつです)なんぞも設置できて、満足。全体的に、落ち着いた感じのデザインへ。

最近少しずつパソコンの使い方が分かってきて楽しい。きちんと自らでパソコン買おうかな。

今日はもう帰って寝ます。昨日買った本を読みながら寝ます。明日、何も予定が入ってなくて助かった。土曜日にはライブですからね。体調を整えて、良い物をお見せできるようにします。

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2006年11月 1日 (水)

本は血であり肉になる

久し振りに本屋で散財。所持金3200円であるにも関わらず、3000円分の本を買う。ちなみに次の土曜日のライブまで収入はない。4日間を200円か、なかなかに厳しいな。

そうやって現実問題を直視していたら、ある瞬間に色々面倒臭くなる。もういいやビール買っちゃえーっと残った200円でビール購入。無一文になりました。大丈夫、死にはしない。

今日買った本のリスト。

「ゼロからわかるアインシュタインの発見」山田克哉

「相対性理論」アインシュタイン

「いけちゃんとぼく」西原理恵子

「百万遍 青の時代(上)」花村萬月

以上四冊。このブログのリンクでも紹介している石田ゆうすけ氏の「洗面器でヤギごはん」という新作も探しに行ったのだが、見つからず。また次回本屋に行った時にしよう。

本日購入した四冊の書籍の内、「いけちゃんとぼく」は早々に読了。久し振りにサイバラにしてやられた。いささか自己満足的な絵本かな、と前半部分では少々感じたが、後半、特に「ぼく」が大人になっていく過程は非常にテンポ良く描かれている。

圧巻は「その15.だいじょうぶのあじ」。或る意味ではサイバラマンガの新境地とも言える挿話だ。流石にやってくれるぜ、サイバラ。不覚にもまたサイバラのマンガにやられてしまった。外で読んでいなくて良かった。

花村萬月「百万遍」は、彼の自伝的小説。前から文庫化を愉しみに待っていたが、先日ついに文庫化。本屋でペラペラとめくってみたが、面白そうな「予感」を漂わせる佇まい。良質な本には大抵その佇まいが備わっており、読んだ際に腑に落ちるというのがよくあるのだ。下巻が置いておらずに上巻だけ購入したのだが、読み終わったらまた下巻を買いに行こう。

相対性理論もついに原本を購入。入門書もまた新たに買っているが。

それぞれ、読み終わったら気分によっては感想をブログに書くので乞うご期待。とりあえず今から「百万遍」を読もう。

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