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2006年10月 2日 (月)

10月1日、上賀茂神社にて

静寂の中、黒白のピアノの鍵盤が叩かれた。

心憎いまでの絶妙な調律を施されたスタインウェイのフルコンサート・グランドピアノから、透き通るように透明な音が、一つ、また一つと虚空に刻み込まれていく。それまで空間に漂っていたはち切れんばかりの緊張感は、ネジを一つずつ緩められていくかのように解れ出し、それと同時に時間の流れは途端に遅くなる。ピアノに向かって当てられた唯一のライトだけが、暗闇の中で一層光り輝き、渦中のその男の姿はますます明確に浮かび上がっていく。

今ここで、何か大変な事が起きている。私は直感的にそう感じた。

固唾を飲む。

その十本の指は、男の脳、そして男の心の完全な奴隷となり、青く光る静かな炎の如き彼の精神を、88つの鍵盤を媒介にして現実世界に還元させる。

私はそっと瞼を閉じる。目には暗闇だけが映る。そして聞こえてくるのは、これは果たして本当にピアノの音なんだろうか、と疑いたくなるほどに美しいピアノの音色。まるで私は銀河の中を独りで彷徨っているかのような錯覚に陥る。第三次空間から第四次空間へ。鋭くも暖かい音が私を包む。

再び目を開け、視線を男に向ける。

私の視線の先にいるのはMr.アブドゥラー・イブラヒム。南アフリカが生んだ不世出のジャズピアニスト。

奇跡である。

私はそう考えずにはいられなかった。

Mr.アブドゥラー・イブラヒムがピアノという楽器に出会い、ジャズという音楽に出会い、そして今こうして眼前でピアノを奏でている。素晴らしい、などという言葉が陳腐に響きそうなほどに、その演奏は素晴らしかった。形容するべき言葉がない。まるで、この現実世界の出来事ではない、奇跡であるかのようにすら感じられたのだ。

しかし、それは眼前で「実際に」起こっている事であった。絵に描いた餅でもなければ、空想でもない。紛う事無き現実であり、私はそれが何かの幸運な奇跡のように思えて仕方が無かった。

Mr.アブドゥラー・イブラヒムは私たちに音楽を「聞かせない」。それは、「聞かせる」という行為とはいささか異なる、「置いてくる」という行為に近いように私には思えた。彼は私たちの心に音楽を「置いていく」。置かれた音楽はまるで燈籠のようだ。ぼんやりと、しかし確かに明るく私たちの心を照らす。古い瑕疵を暖かく包み、全てを赦すような、暖かな光である。

偶然私の傍らでその音楽に耳を傾けていた女性の、頬に一筋、涙が伝った。それは彼の音楽が女性の心の中に置いてこられた事によって、女性の心の中で新しい扉が開かれたしるしだった。美しい涙だ。私はそう思った。

私はぼんやりと、「ある男」の事を想った。私にMr.アブドゥラー・イブラヒムの存在を教え、そしてジャズという音楽の素晴らしさを必死で伝えようとしていた「ある男」の事である。

三年前にMr.アブドゥラー・イブラヒムが来日した折に、彼は私に言った。

「素晴らしいピアニストがやって来る」と。とても嬉しそうに。

三年前、そのコンサートの会場で私は彼に会った。彼は興奮気味に、私にMr.アブドゥラー・イブラヒムの素晴らしさを改めて語った。

昨日の会場に、彼の姿は無かった。あれほどまでにジャズを愛した男の姿が、ジャズの奇跡が成された場所に、無かった。

こっちでは今、凄い事になってます。そっちはどうですか。負けじと凄い事になっていますか。

私は心の中で彼に尋ねた。

彼はきちんと、優しく答えを返してくれた。

私は、小さく頷いた。

ピアノの最後の一音の余韻が止み、再び会場を一瞬の静寂が支配し、そしてそこから鳴り響くかのごとき激しい拍手がMr.アブドゥラー・イブラヒムに送られた。300人にも及ぶ人々の両の掌から叩き出される、音、音、音。どの音が誰の出した音かを特定するのは不可能だ。

けれど、私は知っていた。

歓喜によって紡ぎ出された無数の音の中に、確かに彼の出した拍手の音のある事を。彼もまた、この会場のどこかで、満面の笑みを湛えながらMr.アブドゥラー・イブラヒムの演奏に耳を傾けていた事を。

昨日私が上賀茂神社の地で目撃したのは、音楽という物の持つ、底知れぬ可能性だった。そして、私は今日なら言える気がする。そこにあったのは、或いは愛だったのかも知れない。

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