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2006年9月 9日 (土)

無頼派ルネッサンス

太宰治、坂口安吾、織田作之助、石川淳、壇一雄…

上に挙げた方達は、皆作家だ。いや、当時の時代性を加味して「文士」と呼ぶ事にしようか。昭和初期から戦後にかけて、文学というフィールドにおいて、綺羅星のように輝いた人達だ。

その呼称が適切か適切でないかは別にして、彼らは時折「無頼派」などと称された。私はいまいちこの呼称にピンときていない。漱石や鴎外を「高踏派」と呼んだり、藤村や花袋を「自然主義文学」と呼んだり、そういった呼称はえてして的外れなものが多いという印象が強いが、この「無頼派」という呼称も同様にピント外れなものを感じる。故に、以下、彼らに対して私が「無頼派」という言葉を使う時、それは便宜的な括りだと思って頂きたい。純粋な記号である。

太宰の『人間失格』、『トカトントン』、『斜陽』。

安吾の『堕落論』、『桜の森の満開の下』、『白痴』。

オダサクの『夫婦善哉』、石川の『焼跡のイエス』、壇の『火宅の人』。

ここに挙げた作品に限らず、私は「或る一時期」、彼らの作品を貪るように読んだ。本の随所に線を引き、気に入った箇所は有り難いお経のように何度も口に出して覚え込み、自らの滋養として、そして確かな通過儀礼として彼らの作品に触れた。正直に言おう。私は彼らに並々ならぬ憧れを感じていたのだ。

「或る一時期」と書いたが、それはまさしく「或る一時期」であった。具体的には私が中学生から高校生の頃だったと記憶している。

麻疹(はしか)という病気がある。発熱と斑点様紅色の発疹、鼻や咽喉のカタル、結膜炎を伴う幼児の病である。大人になれば、免疫が出来てかからなくなると言う。この一時性をもって、彼らの文学に「若い人達」が熱中する事を、麻疹の名前で揶揄する事がある。確かに発熱はするのである。比喩的にも、実際的にも。そして私ももちろん「麻疹」にかかっていた。大学生になってしばらくすると、その病は収まった。寧ろ「ダザイが、ミシマが」と言う事に、或る特定のセリフを吐く事に、何とも言えない居心地の悪さを感じるようにすらなってしまった。しかし、多分これは特殊な事ではない。私と同じような体験をされて来た方は少なからずいる筈だ。

誤解を恐れずに、ひどく乱暴に上記の五人を紹介しよう。作品以外の部分に焦点を当てて。各々のファンの方がいらっしゃれば、怒らずに読み進めるか、或いはコメントの欄に補足説明を願いたい。

まずは太宰治。青森の田舎で生まれた「生まれてきてすみません」の作家である。何かあればすぐに「死のう!」と言う男である。自意識過剰。女誑し。将棋好き。

坂口安吾。自称「偉大なる落伍者」。覚醒剤で目覚め、睡眠薬で眠るような男。金にはだらしなく、借金に借金を重ねる。部屋が汚い事で有名。ダンヒルのライターを愛用する競輪キチガイである。

織田作之助。オダサクの愛称で親しまれた大阪の不良文士。革のジャンパーの裾をまくり上げて人前でヒロポンを注射する。顔面蒼白の長髪を額に垂らしながら。わざと自分をバカに見せたがる所がある。

石川淳。浅草生まれの酒飲み。口癖は「バカヤロウ」。一時期は福岡で教鞭をとった、という話は俄かには信じがたい。酒を飲む時は、「なくすから」という理由で時計も定期も財布も持ち歩かない。

壇一雄。今では娘の壇ふみが有名。ボロ家で暮らしていた貧乏な酒飲み。写真だけ見れば、何よりも分かり易いアル中の顔。数々の奇行でも有名。

さて、ここに私が書いた事は、嘘でも偽りでもない。どれも全て彼らのムチャクチャな人生の「ほんの一面」だ。上に書いたような事からも容易にわかるように、彼らは筋金入りの「困った人達」なのである。

故に、その「無頼派」である彼らに憧れていた私自らを鑑みて、言いようのない気恥ずかしさを感じた事があった。何を私のごとき凡人が、彼らの言葉を借りて無頼を気取っているのか、破滅を美しいと思う、などとは青臭い。自らをそうして罵倒すればするほど、そして私が彼らや彼らの作品群に強い思い入れを持っていたからこそ、顔面はますます赤面した。

ところが最近、ふと安吾の『堕落論』を久しぶりにパラパラと捲った。何遍も何遍も読み返した本であったが、これが驚くほどに面白い。食い入るように読み入ってしまう。これまでに気付かなかった新たな発見も随所にある。

私は一つの結論に達した。

私は、彼らを、追憶としては、読めない。

彼らは未だに私の憧れであり、彼らの本に強く影響を受けた私は、今もなお「安吾的思考」や「太宰的自意識」を抱えている事に改めて気付かされた。

彼らの事を追憶として読むのは、まだ早過ぎた。彼らは私にとって、強力に「現実」であった。

安吾と小林秀雄の対談などを引っ張り出してきて読む。

面白え。たまらんな、おい。

吉本隆明の『太宰治試論』を読む。

面白え。

無頼派、再考。いや、再興。

小学生が中学生になるに従って、メンコやビー玉で遊ぶのが気恥ずかしくなって来る。私の世代では、ミニ四駆やカードダスだろうか。私は無頼派の本を読むのが徐々に恥ずかしくなるのは、そんな事にも似ているか、とも思ったが、それは全く別物だった。

彼らの本が、今、私の中で再びアツい。その事が書きたかったのである。

あちらこちら命がけ

戦後日本文学、面白い!

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コメント

男の人に限らず、女の子でも、上に上げたような文人の作品を好んで読み、面白い!共感できる!と言っていた子達が沢山いたけど、私はどうやらこの人達とか作品にそういう感情を持つ事が出来ないらしく、ある意味、とても残念に思うし、同時にそんな自分を幸せにも思う。だって、共感してしまったら、取り返しのつかないところまで自分が突っ走ってしまいそうだからね。全く共感できないわけではないけど、理解できるところまでは行かない。福島くんは、「トカトントン」の主人公とまさに今、同い年なのだから、これらの人達や作品を追憶の中に見るにはまだまだ若すぎるでしょう。むしろ、福島君がこれらを追憶の中に見るような日が来るのかしらね。三つ子の魂百までっていうくらいだから、生来の気質ってそう簡単に変わるものじゃないかもね。

投稿: モトクロス | 2006年9月 9日 (土) 17時39分

三つ子の魂百まで、は確かにそうなのかも知れません。
でもね、やはり作品が年月と共に自分の中で色褪せたりするのは事実。良きにつけ悪きにつけ「変化」しているのかもしれません。
いつ読んでも『The Catcher in the Rye』は面白いんだけれど、高校生の時に夢中になったような感覚は今ではあまり甦らなかったりします。特に教養小説モノはその傾向が強いのかもしれない。
クロサワさんは、そういったものにはハマらなかったみたいですね。僕からすれば、それはいささか意外でした。

投稿: ふくしまたけし | 2006年9月10日 (日) 17時05分

あ、そう?意外?
私は元々理系なので、高校時代とかは、月刊誌のNewtonとか空想科学読本系の「科学の不思議・謎」をテーマにした本を好んで読んでいた気がする。でも、文学士と言われる人達が著した本も何が書かれているんだろう?という興味で読んでいたけど、私の気質はあまり日本文学がそぐわないらしく、面白く読めたのは、どれも外国文学の作品だった。それも、女性作家が書いたものの方が好きだったね。

投稿: モトクロス | 2006年9月11日 (月) 01時42分

↑このコメント、今気付きました。パソコン触らないとなかなか気付かない(日々の更新はほとんど無理やり携帯電話からしてるので)。すいません。
Newtonなんて読んでたんですね。僕も好きですよ、あの雑誌。書いてあることはよくわからないのだけれど、写真がたくさん載ってるから、よく立ち読みします。今月号(だったかな?)は、冥王星に端を発してでしょうか、太陽系惑星の特集をしてました。
地球をビー玉とすると、冥王星ってゴマ粒ぐらいの大きさらしいですね。そして、初めて知ったのですが、木星と土星はメチャメチャでかい!もっとも土星はガスの塊らしいので、密度の事を考えると一概に「大きい」とも言えないとか。星の話は面白いです。

投稿: ふくしまたけし | 2006年9月14日 (木) 16時13分

そうだね、星・宇宙の話は幾つになっても面白いよね。私は、小学生くらいの時は、天文学者になりたいなぁっていう夢を見ていた。宇宙は、浪漫が果てしないと言うか、子供からお年寄りまで楽しめる。宇宙のスケールからしたら、人間が赤ちゃんだろうが年寄りだろうが、もしくは、猿人だろうが、現代人だろうが、近似したら同様な存在になってしまう。だから、人間は太古から宇宙への夢が見果てないのかもしれない。それにしても、福島君、よくこんな長文を携帯で推敲してアップできるね。その器用さに感心だよ。

投稿: モトクロス | 2006年9月14日 (木) 17時42分

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