充実と欠乏
昼間に、ここのところ無為な生活を送っているという友人とメールのやり取りをした。
その中で彼女から突きつけられた質問。
「充実とは何か」
柔道の元になった格闘技である。講道館において修練した前田光世がブラジルに渡り伝えた結果、それは南米の地にも根付く事となった。日本でも一時期人気を博したヒクソン・グレイシー、ホイス・グレイシーなどは、この格闘技の使い手である。
違った。それは「柔術」であった。下らない。
さてもう一度、「充実とは何か」
私はその時には適当な答えを返してしまった。あまり考えずに適当に。
しかし、その事が何か私の胸にひっかかる。こうやって人は痴呆になっていくのか?きちんと思考しない事は、私を不安にすらさせた。再度あれこれと考えるのも悪くはない。今日は一つ、「充実」という事について。
冒頭に私は「無為」という言葉を使った。何もしないでぶらぶらしている事。そういう風に解釈されている方も多いかとは思うが(実際私も冒頭ではその意味で使った)、この無為という言葉の語源は、老子の道のあり方から来ており、自然のままで作為のないことを指す。無為自然。つまり、一見すると「無為に過ごす事」は「充実している事」の反対の状態のようにも思えるが、そうではないという事になる。むしろ「充実している事」に近しい状態、という判断が出来なくもない。
こういった広辞苑的な考え方でいくと、充実とは「中にものがたくさん入っている状態」という事になり、ならばその反対は「欠乏」という事になる。
「ある」のが充実。「ない」のが欠乏。
果たしてそうだろうか。
わざわざ「再度考えてみたい」などと宣言しておいて、その挙句、広辞苑から引いて来たような言葉の意味だけを紹介して終わるのでは、考えたことにはならないだろう。それで良いのならば、「充実とは何か」と問われた際に、返答は「辞書を引け」の一言で全て解決なのだ。問題はそこではないのだ。
少し話題が逸れる。
「自由」という状態の事を思う。何回か前に、アメリカ流の自由は「権力」だ、と書いた。(http://whatdisay.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_1f53.html)それは私の私見であり、さして共感を求めない。そしてもう一つ。よく考えられる誤解。自由とは無秩序である、という事。
秩序の無い状態、何をしても誰にも咎められる事のない状態は、果たして「自由」なのだろうか。
無論、「自由」などではない。
では、果たして自由な状態とはどのような状態か、と考えるに、それは或いは「不自由」な状態になる事で初めて意識される状態なのではないかと私は思う。不自由な環境でこそ、人間は真に自由な状態になれるのではないか、私はそう思うのだ。法律の下でこそ人間は自由になれる、といったような遵法精神からそう言っている訳ではない。法律など、ある場合においては無秩序の象徴にすらなりうるのだから。
不自由の中で、自由を意識する。白いキャンバスに白い絵の具を塗った所で、白い絵の具は見えて来ない。黒いキャンバスに塗りつけて、初めてその白さは際立つように。
これと同様に、「充実する」為には、欠乏を知らなくてはならないのではないか。私はそんな事を思う。
極論であることを承知で言えば、充実とは、欠乏の中で充実を求めて足掻く事なのではないか、と私は思うのだ。つまり、充実した、と実感したその瞬間には、新たな虚無と欠乏が押し寄せ、充実した状態から再び離れてしまう。充実している事を実感しない、充実に向けた過程こそが、最も充実している瞬間なのではないか、と。
昨今の私は、「充実しているのか」と聞かれれば、俄かに「そうだ」とは答え難い。しかし、私は今、自らが充実しているような気もしている。欠乏した状態ではあるが、それが私の充実に繋がっているのではないか、と。
ならば貧乏も不健康も全てを甘受しよう。時折襲ってくる無気力さえも。
欠乏に甘んじてはいけない。欠乏から脱そうとする、その過程にこそ充実は潜む。
再度、考え直すことで、このような一先ずの結論に至った。
多分、明日になれば全て忘れている。
ちなみに今日は久し振りにキーボードで書きましたが、書き過ぎてしまいます。
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コメント
ふ~ん、なるほどね。
福島君のこういう思考って好きだな。
「無為」と「充実」と「欠乏」と「自由」。
こういう概念って、普段、何気なく生活していると余り考えないな。
「不自由の中で、自由を意識する。白いキャンバスに白い絵の具を塗った所で、白い絵の具は見えて来ない。黒いキャンバスに塗りつけて、初めてその白さは際立つように。」っていうフレーズ好きだな。
でも、「充実した、と実感したその瞬間には、新たな虚無と欠乏が押し寄せ、充実した状態から再び離れてしまう」という発言に限って言うと、必ずしもそうじゃないんではないか、とも思う。この状態が成立するのは、その本人が新たなハードル・ゴールを設ける時のみ、向上心がある時のみに言えることじゃない?傍から見て、無為な生活をしている様に見える人も、その人のゴールがそこにあり、それ以上のものを求めていなかったら、その人にとってはその状態が充実した空間なのだからね。いつになっても充実感が得られない人は、ある種、完璧主義、向上心が無限にある人かもね。
投稿: モトクロス | 2006年9月14日 (木) 18時15分
よくわかりますよ。
「真の自由」「何の制約もない自由」なんて、ほんとは誰も求めてないんだよね。そんなの恐ろしいだけ。恐慌に陥るような状態ですよ、きっと。
ある種の枠組みがあってこそ、「奔放」が快感として成立する。ああ、そういえば京極夏彦が、そういうことを考えて「寺」という檻を作ってしまう、という小説を書いていたな。
今の俺の「自由」も、会社という枠からの逸脱によって得られているのだよな、ということは忘れないようにしないとね。それを忘れた瞬間、「社畜」になるのだと俺は考えています(真反対に考えているやつが多いのだけど)。
投稿: torii | 2006年9月14日 (木) 19時09分
くろさわさんへ
僕も何気なく生活してるんですけどね。決して敏感なアンテナを常にはっているわけでもなく、色んな事はただ無為に通り過ぎていくような日常なんですが。人より時間がたくさんあるからでしょう。暇人はこういった所で元気です。
さて、「充実した瞬間に充実した状態から離れてしまう」という下りに対するご意見ですが、なるほどね。それを成立させうる条件として「向上心」が必要になるわけですか。それは確かにそうかも知れない。
ただ僕は、無為な状態=閉塞した状態だと思っているんです。自己存在の基盤が何なのか揺らいだ状態になり、古い言葉を使えば、実存的不安のようなものが生じてくる状態。これが無為な状態なのかな、と。そうなった状態で不安を感じずにいられるほど、人間ってのは丈夫に出来ていないんじゃないか、とも思うんです。
不安というのは向上心のきっかけに十二分になりうる。つまり、そこから充実の状態に繋がりうる、と、そう思うんです。
何だか自分で書いていてよくわからなくなってきました。あまり「コメントに対する返信」の体をなしていないかもしれない。すいません。
投稿: ふくしまたけし | 2006年9月15日 (金) 17時55分
とりいさんへ
自由を自由たらしめる不自由の存在が、とりいさんの場合には「会社」である、という訳ですか、なるほど、充分ありえるケースですよね。
ただ、イマイチ分かりづらかったのは、「その真反対の考え方」という事です。つまり、「自由は与えられ享受するものでなく、錬金術のように自らの力によって無から作り出していくもの」という事なんでしょうか。理解不足で質問してしまいましたが、とりいさんからしたら、きっとここの所を詳しく説明しようと思えば、多少愚痴っぽくなってしまうでしょうから、無理に「教えてください」とは言いません(笑)
少なくとも、「自由を際立たせる為の不自由」の無い状態、というのは、極めて独善的、自己完結的になってしまうと僕は感じています。自らの自由に説得力のようなものを持たせたければ、不自由を甘受しなくてはならない。充実も同様であって、欠乏を甘受しない充実は、やはり独善的なのかなと思います。
「独善でいいです。何か文句あるんですか」って開き直っちゃえば良いんでしょうけど、その辺でみみっちいプライドが働いてしまうんですよね。いや、まだ開き直りたくねえな、って。
これまた論理性の無い返信になってしまい、すいません。
投稿: ふくしまたけし | 2006年9月15日 (金) 18時07分