破壊の代償
理不尽なまでの食欲や性欲に突然襲われたりする事があるように、或いは何か激しい破壊衝動に突如駆られるかのように(リビドーとタナトス、そんな言葉で釈明するのは不愉快だ)、どうしようもないほどに言葉を発したくなる時がある。
言葉によって世界と繋がり、こぼれ落ちないようにしよう、そこまでは望まない。けれど、やはりそれは私の根源的な欲求の一つに違いない。
「やるべき事」と「やりたい事」があって、その線引きを曖昧にしていたら、いつの間にか私はピアノの前に座っていた。原稿用紙の前に座ろう。比較的長いことそう考えていたのに、気が付けば目の前には黒白の鍵盤があった。多分、原稿用紙と鍵盤の間にある差異は、些細なものなのかも知れない。
朝起きた瞬間や、眠りにつく直前のほんの一瞬に、まるで眼前を掠める鳥の様に、奇怪な想念が浮かぶ事がある。けれど私は知っている。それは掴む事の出来ない領域に属する想念なのだ。空中に浮揚した状態を我々人間の力では持続出来ない様に。掌から砂金を出す事など出来ない様に。それは物理的に捕える事の出来ない物であり、そして捕えた所でさして意味はない。果たして意味のある物事がどれだけあるのかはわからないが。
とりとめもなく書いてしまったが、今日の私は、何せ文章が書きたかった。比較的日常的にこのブログにも文章を書いているが、惰性で書く時と、今日のように確固たる衝動に突き動かされて書く時がある。どちらが良いか、と言えば、これは何とも言えない。惰性で書いた文章は、書き上がった後から客観的になって推敲し、そして批判的に削り取り、付け加える作業が容易い。対して、或る衝動や欲求に裏付けられた文章は、書き上がった後に一種の興奮状態というか、不味い時には陶酔状態に陥っている時もあるので、冷静な推敲がし難い、という一面もある(私が文章に関してアマチュアなのは、特にここだ)。言わば自己完結的な、そういったものにも堕し易いのだ。今日の文章は、ここまで書いた分だけを見ても、随分と自己完結的な部分が多い。
しかし、文章を書く際にいつも思うのだが、「書くべき事があるかないか」という問題よりも、「書きたいか書きたくないか」という問題の方が遥かに重要な気がする。書きたいと思えば、書くべき事は世界に溢れている。例えば今日の私の取るに足らない日常の中ですら。
今日の私は、とても「書きたい」ので、その瑣末な日常を描写する。
基本的な修練。ピアノの練習で言えば、メトロノームに合わせて、様々なキイで様々なパッセージを弾く修練に似ている。
さて。
午前中から、近所のファミリーレストランに言って、アイスコーヒーを飲みながら小説を読んだ。取り分けてファミリーレストランに行きたかった訳でもなければ、小説が読みたかった訳でもない。ただ、思い立ってそうした。
ファミリーレストランに入ると、案内係の若い男が私に近付いてくる。綺麗に頭髪を刈り、髭を剃った、清潔感に溢れた男だ。そんな男がファミリーレストランの白い制服を着ているものだから、現実感に乏しい。現実感があろうが無かろうが、現実というのはただそこにあるものなのか、と私は思う。
男は私に、お独り様ですか、と尋ねる。極めて丁寧な口調だ。
私は、独りだ、と答える。
煙草を吸いますか、と尋ねられ、一瞬私は躊躇したが、吸う、と答える。
店内が空いていた事もあって、4~6人がけぐらいの、大きなテーブルに案内される。
注文が決まったらお呼び下さい、と男は言うが、私は飯を食うつもりもなかったので、アイスコーヒーをくれ、とその場で答える。かしこまりました、男は答える。
私は、ズボンのポケットから文庫本の小説と煙草を取り出して、ざっと周囲を見渡す。無機質な喧騒がそこにはある。無論、その事に失望などしない。
小説のページを無造作にめくっていると、私の傍らにアイスコーヒーが運ばれる。男は、ごゆっくりどうぞ、と頭を垂れる。申し訳ないがゆっくりさせてもらうつもりだ、と私は心中呟き、適当に会釈をする。
小説は、昔読んだ事のある長編小説。高校生の時だった。確か、大学受験の受験勉強から逃れるために、現実逃避の一環として読んだのだった。そんな事を思い出しながら読み進めた。北海道にあるホテルの話だ。
100ページほど読み進めた辺りで、私の前方と側方に、団体の客が訪れる。こうなると、私は小説を読んでいるふりをしながら、意識はその双方に向かう。盗み聞き、と言えば聞こえは悪いが、せっかく外界に触れているのだからと思い、周囲を観察する。
前方にやって来たのは、若い男の五人組。席に着くなり、各自鞄から書類やプリント類を出し、何かの準備を始める。
側方にいるのは、30代から40代と思しき女性六人組。主婦同士の会合、とパッと見てすぐに判断がつく。
主婦たちは流石に五月蝿い。近所の塾の評判や、学校での教師たちの噂話に終始する。きっと彼女たちは皆出会い系サイトで相手を探して不倫を愉しんでいるのだ、と妄想する事にする。それによって彼女たちのストレスが軽減し、家庭が円満に行くのであれば、それもまた良し、と私なりに暖かい眼差しで見守る。他人の幸福のあり方にケチをつけられる訳が無い。
さながら勉強会か?という雰囲気を醸し出していた前方の男たちは、その書類に目を落としながら何やら討論を始めた。
―結論に至る過程っていうのは確かに大事なんだけれど、やはりまずは結論ありき、なんじゃないか。
―俺はまずはマクロの視点で見て、その後にミクロの視点で見るようにしている。
何の話なのだろう、と思っていたが、どうやら彼らは法律学校(ロースクール)の学生であるらしい。民法が、刑法が、といった言葉が彼らの会話に出て来た時に、そうではないか、と思ったが、直接「ロースクール」の単語が出て来た時に確信に変わった。なるほど、法律を学んでいるのか。私はとんと法律に疎い。学びたいジャンルである事は確かなので、私の未だに知らない事を学ぼうとしている彼らに、憧憬と嫉妬の念を同時に覚えた。
そんなこんなしている所で、先に書いたように、「書きたい欲求」が漠然と湧き上がってきた。眼前の状況を「書きたい」と思ったからではない。ただ、私は書きたかったのだ。なぜ、湧き上がったのかは自分でもわからない。私にとって、「書きたい」という欲求は、かなり理不尽なものだと知ったのだ。
書きたい。
カタカナで書くとカキたい。
下品。
とにかく、書いた。
こうして、何とか今日も、愚鈍な自分をごまかしながら生きている事が出来た。
相当に自己完結であるが、今日だけは仕方が無い。お陰で何も破壊せずにすんだのだから。
今日は、推敲は、しない。
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コメント
福島君は、卒論は書いてるの?
でも、本の批評文を書くよりも、福島君は、創作文を書くほうがあっている気がする。
投稿: モトクロス | 2006年9月21日 (木) 18時49分
論文、書いてますよ。
創作、批評に関わらず、純粋に文章を書くのは好きなんですが、創作を少しでも褒められたならば、もう少し書いてみますね。書いた時にはすぐに人に見てほしくなる悪い癖があるので、ブログにアップしますが、見て下さい。
投稿: 福島剛 | 2006年9月26日 (火) 23時36分