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2006年9月12日 (火)

9.11に寄す

世界的な規模で見れば、365日、毎日が何かしらの記念日だと言って差し支えないだろう。2月9日は「肉の日」。そんな語呂合わせさえあるぐらいだから。誕生日や命日に限らず、人は何かと記念日を作りたがる。それは、何か大事な事を忘れないようにする為なのかも知れない。

昨日の事となってしまったが、9月11日という日が、「或る特定の人々」にとってのみならず、一定の共通した認識として「特別な日」になったのは、今から丁度五年前の事だった。アメリカ、ニューヨークの高層ビルに、飛行機が激突した。血が流れ、人が死んだ。今更説明するまでもあるまい。私は奇しくもその日、その数ヶ月後に戦場となり、同様に多くの血が流れた地、パキスタンにいた。

私自身の傾向としてある、イスラム圏の国々に対して評価が甘い、というのが関係しているものの、五年前のかの事件に関して、私はどちらかと言えばアメリカに対して批判的な姿勢を取ってしまいがちな所がある。つまり「因果応報」の四文字熟語が頭に浮かぶ、とそういう事だ。しかし自己弁護をする訳ではないが、当時日本でもなされていた「イスラムイコール悪」といった感じのステレオタイプ的偏重報道は本当に酷かった。「テロイコール悪」という正論さえ、その説得力と正当性を失いかねなかった。

アメリカという国家が敵と見なした国は、日本でもやはり敵国として扱われる訳ね、なるほど分かり易い。そんな風に独り毒づいてみたり。

何かにつけて私はアメリカ批判を繰り返してしまう。アメリカは嫌いなんだろ、と思われても仕方がないのだが、実のところ、私は「アメリカが好きか嫌いか」と問われれば、数分の躊躇の内、「多分嫌いだ」と答えるだろう。即答は避けたい。つまり、アメリカという国家にはその逡巡を誘うだけの、長所短所がある。しかもそれは、かなり「分かり易い」形で顕現化する。故に私も躊躇し、逡巡するのだ。

例えば野茂やイチローがメジャーリーグに渡った時、アメリカのベースボールファンは、彼らの事をその実力ゆえに歓迎した。王貞治のホームラン記録が、外人の選手に破られそうになると敬遠責めをするような、我が日本球界の島国的で閉鎖的な実情からは、俄かには考え難い。彼らは、イチローの新記録の数々を、手放しに賞賛し、歓迎した。アメリカの言う「自由(freedom)」の、極めて良質な一例であろう。野茂、イチローに限らず、アメリカという国は「受け入れる事」に関しては、日本とは比べものにならないほどに高い性質を持っている。受け入れたものをきちんと咀嚼し、自分たちなりにアレンジし、取り込む能力にも長けている。ジャズも、勿論その産物だ。

しかし、その「自由」は、時折「権力」とニアイコールになる事があるというのが、私がアメリカを憎む所以だ。自由を行使する為には、権力を掴まなくてはならない。発言力があっての自由だ。彼らの態度は、時としてそのようにとれなくもない。

ワールドトレードセンターに飛行機が激突した後、ブッシュは言った。「我々の自由が脅かされている」と。

それは自由ではなくて、権力だろ?

地位だろ?

覇権だろ?

そんな事を私は思った。自由なんていう綺麗な言葉で誤魔化すなよ。

ちなみに私は「ブッシュは好きか嫌いか」という質問には即答出来る。

大嫌いだ。

クリントンも嫌いだったが、ブッシュはそれとは比べものにならないほどに嫌いだ。「法律なんてものが無けりゃ、お前なんかとっくに殺してるぜ」リストの上位に入る。

昨今のレバノンーイスラエル情勢に関してもそうだが、アメリカ、本当にこのままで良いのか!?

第三次世界大戦は間もなく勃発するだろう。

何を争う戦争か。

勿論、覇権だ。

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