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2006年9月

2006年9月29日 (金)

習慣としての修練

私は文章を書く事に関しては、素人である。

最近知ったのだが、ブログを書いて報酬をもらっている人というのもいるらしい。しかも、比較的自由に書いて、である。文章のプロフェッショナルの人達の話だ。

羨ましいなという気持ちは皆無、と言ってしまえば嘘になるが、ある意味では当然だとも思っている。プロフェッショナルの人が書く文章はやはり洗練され、そして面白く、私が書くようないい加減な文章とは一味も二味も違う。

私が考える、文章におけるプロフェッショナルと素人との数多の違いの中で最も代表的なものは、「習慣」である、と思っている。それは「書き続ける力」と言っても良いかも知れない。

例えば私は毎日ピアノを四時間以上弾き続ける事が出来る。いささかの苦痛も伴わずに、である。それは習慣なのだ。そしてそれが(最低限)出来なくてはプロフェッショナルではない、と思っている。少なくとも凡人である私は。時にはそういった日々の努力すらも超越する「天才」のような人間もいるのかも知れないが、少なくとも私は違う。日々努力する事で何とか保っている。ひけらかす訳ではない。それが、幸か不幸か才能に恵まれなかった者の宿命なのだ。

同様に、文章を書くプロフェッショナルである為には、日々原稿用紙十枚乃至二十枚は書き続けられなくてはならない。それが日々の修練であり、やはり同様にいささかの苦痛も伴わずになされなくてはならない、或いは何かしらの苦痛があったにしても、それを甘受出来なくてはならない。

そして今日何故こんな事を書いたかと言えば、私が毎日ブログを更新出来ない事のエクスキューズとして書いた。素人であるが故に、習慣として毎日書けない、と。

つまり、卑怯な言い訳を書いたのだ。

ずるいなぁ……

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2006年9月27日 (水)

アブドゥラーイブラヒム

アブドゥラーイブラヒム

今日はテンション高いので、喋り言葉で書きます。

いやあ、興奮しました。何がってアブドゥラーイブラヒムさん。南アフリカ出身の世界的ジャズピアニストですよ、お会いしてしまいました!

今週末の9月30日と10月1日に、京都は上賀茂神社でコンサートをされるんですね。スタッフは全てボランティアなのですが、主催であるジャズ喫茶「ラッシュライフ」とのご縁で、今回僕もスタッフとして参加させてもらってます。僕は大した事はしてないんですがね。

今日の昼間に僕の携帯が鳴って、電話の向こうはラッシュライフのマスター。

「店、手伝ってくれ。電話番とか。」

はい、行きます。

今日、来日するアブドゥラーさんを京都駅まで迎えに行かなくてはならず、その間、奥さんの三千代さんと店を見といてほしいとの事。喜んで了解しました。

昼の3時過ぎに京都駅に到着したアブドゥラーさん。滞在の宿にチェックインしてから、出町柳のラッシュライフに来られると聞いて、もうドキドキしてましたよ、本当に。いつ来るのかな、まだかな。そんな事を考えながら、店を手伝っていたら、5時過ぎに店の周辺が俄かにざわめき出した。

やって来ました、アブドゥラーイブラヒムさん!穏やかな笑顔を湛えながら、そして迎えたみんなも興奮気味に笑い合いながら。僕も心の中の女子高生がキャーキャー言ってましたよ。

アブドゥラーさんは迎えてくれた一人一人に握手と挨拶をされてから店内へ。とても和やかな空気に包まれました。飛行機で15時間をかけて来られたというのにも関わらず、疲れた顔も見せずに、コンサートの簡単な打ち合わせをされていました。御年72歳、お元気です。

実は僕、もしもチャンスがあればサインを頂きたいな、というミーハー根性から、レコードのジャケットを持って行ってたんですね。勿論、チャンスがあれば、だったんです。

そしたら、マスターが僕に「おい、レコード持って来ぃや」と。アブドゥラーさんに「こいつ、スタッフなんやけど、アブさんのファンですねん。良ければサインしてやってくれませんか。」と、口を利いてくれたんですね。僕も恐る恐るレコードのジャケットを差し出したら、快くサインしてくれました。横からマスターが「こいつもピアノ弾きますんや」と口を挟む。いやいやいや、アブドゥラーさんの前でそんな事言わないで下さい、とも思いましたが、アブドゥラーさん、優しく話し掛けて下さりましたよ。あんまりにも夢のようで、何を喋ったかあんまり覚えてないんですが、覚えてる限りでは、「自分で曲を書いたりするのか?」とか「普段はソロでやってるのか?トリオか?」とか。

興奮しました。ドキドキしましたよ。

添付した写真はそのサインを頂いたジャケット。嬉しかったです。

今週末のコンサートも楽しみですね。詳細はこのブログのサイドの「ラッシュライフ」のリンクをクリックすれば見れます。興味のある方は見てみて下さい。

僕も30日はライブなので、アブドゥラーさんのコンサートは全部は見れないのですが、1日はたっぷり楽しみたいと思います。

ちゅう事で、嬉しかった報告でした。たまにはこんなのもアリでしょう。

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2006年9月26日 (火)

パンが無ければケーキを食えば良い

万物は有限だ。いずれ滅する。我が家の米がなくなった。

家に米がある事が私に奇妙な安堵感をもたらす反面、米がなくなると、そこはかとない不安に襲われる。

先週は、まず醤油がなくなり、そして味噌がなくなった。大量にあった乾燥ワカメもなくなり、ごま油も片栗粉もなくなった。文字通り、台所事情は貧窮したのだ。

やがて米がなくなった。そして誰もいなくなった、そんな台詞を独白して苦笑する。冷蔵庫に転がる納豆のパックには、シュールな孤独感が漂う。

貧乏な私は、食事の九割を自炊で済ませているが、これではどうにもならぬ。私は、醤油を買い、味噌を買った。乾燥ワカメは高価であったので、塩漬けにされた生ワカメも購入した。

しかし、米はない。極めて高性能の車を組み立てた挙げ句、運転手がいないかのような有り様だ。

米を買おうか。

金がない。

銀シャリは一番のご馳走か?

否。ラーメンが食いたい。

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2006年9月25日 (月)

深夜番組ウォッチャー

昼寝をしてしまったせいで、寝つきが悪い。ついついウイスキーを舐めてしまう。節酒の習慣が台無しだ。問題は泥酔状態なので、比喩ではなしに舐めるような飲み方をキープする。お陰でこうして携帯からブログを更新する事も可能だ。非酔っ払い状態万歳。

スポーツニュース見たさにテレビを付けっぱなしにしていたら、「人志松本のすべらない話」という番組が始まった。御存知の方もいるかも知れない。数人の芸人達が集まり、誰に話しても笑いが取れるようなエピソードを話す、という番組だ。

なかなか実験的な番組で、私は好きな上に高く評価している番組だ。この番組のリーダーは、ダウンタウンの松本人志。最近少々低調な感もある彼だが、やはりこの手の番組では本領を発揮する。面白い。やっぱり天才なんだな。

深夜番組には、これまでに幾つかは好きな番組というのがあった。竹中直人がやっていた「デカメロン」という番組、中島らもや笑福亭鶴瓶が出ていた「最後の晩餐」という番組、ビートたけしの「北野ファンクラブ」、最近ではウッチャンナンチャンの内村がやっていた「内村プロデュース」。深夜番組という枠には、深夜ならではの自由さがある。その自由さを生かした番組は、やはり面白い。一生テレビと関わる仕事はないとは思うが、テレビを作る側に回るなら、是非とも深夜番組を作ってみたい。

という事で、テレビを見ながらの簡単な更新でした。

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2006年9月24日 (日)

親孝行

久しぶりのブルーズライブ。やっぱり好きでね、ブルーズが。愉しかった反面、その分はしゃいでしまうから、疲れる。ライブが終わったらヘトヘトになる。体中汗びっしょりになって、出来ればもう動きたくない、っていうくらい。

翌日も朝から早いし、さっさと帰ろうと思って原付バイクに跨った時に、ふと奇妙な予感。危惧。今日のライブハウスの近くに私のよく行く喫茶店があり、そこの店主のオバチャンの事が気になった。

実は最近少し電話で喋る事があり、その時に何となく声のトーンに翳りがあったのが気になった。丁度近くまで寄ったし、少し顔を見に行っておこうか、と思い、寄り道をする。

このオバチャン、私の事を息子のように可愛がってくれ、私も彼女を母親同様に慕っている。たまに顔を出さないと怒られる。金がないから寄れないんだったら、奢ってやるから来い、と言う。顔を見せない事の方が駄目だ、と言ってくれるのだ。私が付き合う女にも当然口を出す。春に別れた女の事は、付き合っている時からガミガミ言っていたし、別れてからは「別れて良かった」と得意気に言う。一歩間違えば私も「いちいちうるせえなあ」となりそうなものだが、不思議とそうはならない。やはり、母親のようなものかと苦笑する。

杞憂ならば良いが、と思って店に行った。

「うん、今日はメシ食いに来たんだ。腹減ったよ。何か作ってくれよ。」

「よし、作ったる。酒はいらんのか?」

「いらない。バイクだし。俺、今、酒やめてんだよ。」

なんて会話を交わす。タラコスパゲティを作ってくれる。大盛だ。美味い。

「うめえよ」

「当たり前や」

これは杞憂で済んだかな、と思いながら、スパゲティを平らげると、彼女は徐に私の隣に座って来た。

どうした?

聞けば、やはりここの所調子が悪いのだと言う。愚痴をこぼすような人ではないので、珍しいなと思いながら話を聞く。別段、私が何かをしてあげられる訳でもない。ただ、聞く。

彼女の憂鬱が本当に和らいだのかどうかはわからない。けれど、彼女は私が帰る時には「今日、来てくれてありがとう」と何度も言った。「いいよ、いつも世話になってンだから」なんて言いながら。

今度ゆっくり、愉しいライブに客として行こうぜ、と約束を交わした。私は親孝行な息子である。

元のオバチャンに戻るまでは、やはり私としても心配なのである。

帰り道で空を見上げた。星空が高い。

もう、秋だ。

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2006年9月20日 (水)

破壊の代償

理不尽なまでの食欲や性欲に突然襲われたりする事があるように、或いは何か激しい破壊衝動に突如駆られるかのように(リビドーとタナトス、そんな言葉で釈明するのは不愉快だ)、どうしようもないほどに言葉を発したくなる時がある。

言葉によって世界と繋がり、こぼれ落ちないようにしよう、そこまでは望まない。けれど、やはりそれは私の根源的な欲求の一つに違いない。

「やるべき事」と「やりたい事」があって、その線引きを曖昧にしていたら、いつの間にか私はピアノの前に座っていた。原稿用紙の前に座ろう。比較的長いことそう考えていたのに、気が付けば目の前には黒白の鍵盤があった。多分、原稿用紙と鍵盤の間にある差異は、些細なものなのかも知れない。

朝起きた瞬間や、眠りにつく直前のほんの一瞬に、まるで眼前を掠める鳥の様に、奇怪な想念が浮かぶ事がある。けれど私は知っている。それは掴む事の出来ない領域に属する想念なのだ。空中に浮揚した状態を我々人間の力では持続出来ない様に。掌から砂金を出す事など出来ない様に。それは物理的に捕える事の出来ない物であり、そして捕えた所でさして意味はない。果たして意味のある物事がどれだけあるのかはわからないが。

とりとめもなく書いてしまったが、今日の私は、何せ文章が書きたかった。比較的日常的にこのブログにも文章を書いているが、惰性で書く時と、今日のように確固たる衝動に突き動かされて書く時がある。どちらが良いか、と言えば、これは何とも言えない。惰性で書いた文章は、書き上がった後から客観的になって推敲し、そして批判的に削り取り、付け加える作業が容易い。対して、或る衝動や欲求に裏付けられた文章は、書き上がった後に一種の興奮状態というか、不味い時には陶酔状態に陥っている時もあるので、冷静な推敲がし難い、という一面もある(私が文章に関してアマチュアなのは、特にここだ)。言わば自己完結的な、そういったものにも堕し易いのだ。今日の文章は、ここまで書いた分だけを見ても、随分と自己完結的な部分が多い。

しかし、文章を書く際にいつも思うのだが、「書くべき事があるかないか」という問題よりも、「書きたいか書きたくないか」という問題の方が遥かに重要な気がする。書きたいと思えば、書くべき事は世界に溢れている。例えば今日の私の取るに足らない日常の中ですら。

今日の私は、とても「書きたい」ので、その瑣末な日常を描写する。

基本的な修練。ピアノの練習で言えば、メトロノームに合わせて、様々なキイで様々なパッセージを弾く修練に似ている。

さて。

午前中から、近所のファミリーレストランに言って、アイスコーヒーを飲みながら小説を読んだ。取り分けてファミリーレストランに行きたかった訳でもなければ、小説が読みたかった訳でもない。ただ、思い立ってそうした。

ファミリーレストランに入ると、案内係の若い男が私に近付いてくる。綺麗に頭髪を刈り、髭を剃った、清潔感に溢れた男だ。そんな男がファミリーレストランの白い制服を着ているものだから、現実感に乏しい。現実感があろうが無かろうが、現実というのはただそこにあるものなのか、と私は思う。

男は私に、お独り様ですか、と尋ねる。極めて丁寧な口調だ。

私は、独りだ、と答える。

煙草を吸いますか、と尋ねられ、一瞬私は躊躇したが、吸う、と答える。

店内が空いていた事もあって、4~6人がけぐらいの、大きなテーブルに案内される。

注文が決まったらお呼び下さい、と男は言うが、私は飯を食うつもりもなかったので、アイスコーヒーをくれ、とその場で答える。かしこまりました、男は答える。

私は、ズボンのポケットから文庫本の小説と煙草を取り出して、ざっと周囲を見渡す。無機質な喧騒がそこにはある。無論、その事に失望などしない。

小説のページを無造作にめくっていると、私の傍らにアイスコーヒーが運ばれる。男は、ごゆっくりどうぞ、と頭を垂れる。申し訳ないがゆっくりさせてもらうつもりだ、と私は心中呟き、適当に会釈をする。

小説は、昔読んだ事のある長編小説。高校生の時だった。確か、大学受験の受験勉強から逃れるために、現実逃避の一環として読んだのだった。そんな事を思い出しながら読み進めた。北海道にあるホテルの話だ。

100ページほど読み進めた辺りで、私の前方と側方に、団体の客が訪れる。こうなると、私は小説を読んでいるふりをしながら、意識はその双方に向かう。盗み聞き、と言えば聞こえは悪いが、せっかく外界に触れているのだからと思い、周囲を観察する。

前方にやって来たのは、若い男の五人組。席に着くなり、各自鞄から書類やプリント類を出し、何かの準備を始める。

側方にいるのは、30代から40代と思しき女性六人組。主婦同士の会合、とパッと見てすぐに判断がつく。

主婦たちは流石に五月蝿い。近所の塾の評判や、学校での教師たちの噂話に終始する。きっと彼女たちは皆出会い系サイトで相手を探して不倫を愉しんでいるのだ、と妄想する事にする。それによって彼女たちのストレスが軽減し、家庭が円満に行くのであれば、それもまた良し、と私なりに暖かい眼差しで見守る。他人の幸福のあり方にケチをつけられる訳が無い。

さながら勉強会か?という雰囲気を醸し出していた前方の男たちは、その書類に目を落としながら何やら討論を始めた。

―結論に至る過程っていうのは確かに大事なんだけれど、やはりまずは結論ありき、なんじゃないか。

―俺はまずはマクロの視点で見て、その後にミクロの視点で見るようにしている。

何の話なのだろう、と思っていたが、どうやら彼らは法律学校(ロースクール)の学生であるらしい。民法が、刑法が、といった言葉が彼らの会話に出て来た時に、そうではないか、と思ったが、直接「ロースクール」の単語が出て来た時に確信に変わった。なるほど、法律を学んでいるのか。私はとんと法律に疎い。学びたいジャンルである事は確かなので、私の未だに知らない事を学ぼうとしている彼らに、憧憬と嫉妬の念を同時に覚えた。

そんなこんなしている所で、先に書いたように、「書きたい欲求」が漠然と湧き上がってきた。眼前の状況を「書きたい」と思ったからではない。ただ、私は書きたかったのだ。なぜ、湧き上がったのかは自分でもわからない。私にとって、「書きたい」という欲求は、かなり理不尽なものだと知ったのだ。

書きたい。

カタカナで書くとカキたい。

下品。

とにかく、書いた。

こうして、何とか今日も、愚鈍な自分をごまかしながら生きている事が出来た。

相当に自己完結であるが、今日だけは仕方が無い。お陰で何も破壊せずにすんだのだから。

今日は、推敲は、しない。

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2006年9月19日 (火)

勝負への冒涜?

数回前に書いた、柔道ワールドカップの事を再び。

あれだけ、楽しみだ、と言いながら書いておきながら、実は私は男子も女子もどちらも見ていない。いい加減なものだ。試合の放映直前まで組んでいた、ライブのリハーサルの予定が押してしまった為なのだが、正直言って見なくて良かったかな、とも思っている。

それは、日本が負けたからではない。

後から聞いた話だが、放送の仕方があまりに酷かったようなのだ。

優勝したのは、グルジア。準優勝はロシア。

これまで、柔道においては後進国のイメージすらあった両国。運も味方しただろうし、ルールや判定も味方したかも知れない。そんな事は些細なことだ。この両国による決勝戦というのは、遅れてきた大国による決勝戦という意味で、十分に見る価値はある、と私は思う。

にも関わらず、である。

何とフジテレビはこの両国による決勝戦を、きちんと放送しなかったようなのだ。

この情報に関しては、私はあまり信憑性の高い所から聞いた訳ではないので、実際に放送を見ていた人に再度真偽を問いたい。放送を見ていた人は、よろしければ教えて頂きたい。

しかし、これが事実だとするならば、それは決して許される事ではない。日本が決勝戦に進出しようがしまいが、決勝戦というのはその大会の唯一の勝者を決める、最も大事な試合であるのだ。日本が進出しなかったから、などという瑣末な理由で、それを放送しないなどというのは、言語道断である。

バレーボールの国際試合の放送なども、酷い、とつくづく思う。日本チームが得点を入れた時だけは、白痴のように騒ぎ立て、相手チームの華麗なプレーには、お通夜のようにダンマリ、である。挙句の果てには、試合開始前にはジャニーズだか何だか知らぬが、得体の知れないジャリタレがコートの上でみっともない歌とダンスを披露する。何だ、これは、と狼狽してしまう。まるで、八百長で勝った試合の後にリング上で下手糞な歌を披露する、訳の分からぬ醜悪なボクサーと変わらないではないか。

柔道という武道は(或いは言いたくはないが、スポーツは)、日本が世界に誇る財産である。もし、在日グルジア人が今回のワールドカップの放送を見ていたならば、どれほどの不快感を感じたのだろうか。そして、どれほど日本という国に不信感を持ち、また柔道という文化に対して失望するだろうか。

フジテレビよ。もし本当に決勝戦をきちんと放送していないのであれば、君たちは柔道という文化を冒涜した事にもなる。それは、彼らが血道を上げている「勝負」というものに対する、最大限の侮辱だ。

私は、決勝戦未放送、という噂が、偽のものだと信じたいが、どうなのであろうか。

少なくとも、私は「勝負」が見たかった。

それが見れなかったのならば、放送を見逃した事に一縷の後悔もない。

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2006年9月18日 (月)

芋デブ上等

北海道に住む、友人Tから大量の馬鈴薯が届く。何でも、30kgもの馬鈴薯を600円ぐらいの格安値段で買ったようで、それを半分ほど私の元に送ってくれたのだ。少々小ぶりの段ボール箱に、ギッシリと馬鈴薯が詰まっている。見た目としても圧巻だ。

料理が苦手な私は、凝った調理は出来ないので、簡単に調理する。馬鈴薯に付いた土をざっと洗い落とし、そのままラップに包んで電子レンジでチン。出来上がった馬鈴薯にはマーガリンをつけて食べてみる。

美味い……

ホクホクとした食感も勿論だが、ほんのりと甘くてコクのある味わいが口一杯に広がる。レンジの中で加熱している間に、我が家の向かいにある自販機でビールを購入。もう禁酒も節酒もへったくれもあるか。

極上のじゃがバターを一口。ビールをゴクリ。訪れる至福の瞬間。

今の私ならば、ビールのCMに出れる。それぐらいに美味そうにビールを飲んでいるぞ。

ビールと芋。今日の私はドイツ人であるかのようだ。ふくしまッハたけしュタインこと私だ。ドイツ人にデブが多いのは、このビールと芋という食生活の所以である事には間違いないとは思うが、私もお陰でデブになるのだろう。最近の私は、自らの肥大化にかなりの焦りを見せているが、もういいや。美味いもの。芋を食って芋デブになってやる。ドイツ人達よ、最近は第三次世界大戦が起きそうな気配だが、その際にはまた、先の大戦の時のように、負け犬としてやられてしまおう。私は芋とビールを支持しよう。ブクブクと醜く太ろう。ヘイヘイヘイ、成人病バッチ来い。

ちゅう事で、今我が家には大量の馬鈴薯があります。一口食べたい人は御一報下さい。

また、簡単なオススメ調理法があれば、是非教えて下さい。宜しくお願い致します。

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2006年9月15日 (金)

勝ち続ける事

昨夜、相撲の結果を見ようとスポーツニュースを見ていたら、9月17日(日)、18日(月)と開催される柔道のワールドカップ、世界国別団体戦の特集が組まれており、それを就寝前に少し観た。

17日が女子、18日が男子だそうだ。良かった。17日は私はライブなのだ。観れないのだ。まあ、女子なら見逃してもいいや、と胸をなでおろす。これは何も女性差別発言ではない。柔道に関しては、特に今回のワールドカップに関しては、確実に男子の方が「面白い」のだ。それは、単純な技術力云々の話ではない。もっと漠然とした、「華」とでも言えば良いのだろうか。柔道に関しては、男子柔道のほうが「華」がある(少なくとも今は)。

逆に女子の方が「華」のあるスポーツというのもある。一番顕著な例はバレーボール。女子バレーは観ていてとても「華」を感じる。テニスも同様だ。昨今では、ゴルフにもそういった印象を受ける。宮里藍、横峰さくら、ミッシェル・ウィー、女子ゴルフは今やスター選手にこと欠かない。

女子柔道には、田村亮子(現:谷亮子)出現前には山口香というスター選手がいた。そしてその山口と入れ替わりに出てきたのが前述の谷だ。最近の試合では、全盛期のカミソリのような切れ味こそ見せなくなったものの、円熟の試合運びと勝負勘で安定感はある。やはり、谷亮子という選手は、女子柔道の世界では10年に1人の逸材だったのだ。

しかし、その後を受ける選手が育っていない。谷本、上野姉妹、といったスター選手候補達は、今一つ「スター」になりきれていない。理由は明白だ。「好成績の持続力」がないからだ。

イチロー、松井、朝青龍、タイガー・ウッズ、ミハエル・シューマッハ。「スター」と呼ばれる選手たちは、信じられないような好成績を持続させる。そしてその事によって圧倒的な信頼感を得る。一度王座に着くだけでは駄目なのだ。継続して、王者で「あり続ける」事が求められる。厳しいようだが、「スター」とはそういうものであるし、実際に、谷亮子は王者であり続けた。今、女子柔道の選手達には、そのスターが不在である。結局は人気は谷亮子頼み、みたいな所も見えなくもない。そんな風潮を払拭するような選手が早く出てくれば良いのだが。

さて、男子柔道、こちらには圧倒的なスター選手が存在する。最軽量級、60kg級の代表選手、野村忠宏である。今回の日本選手団の主将を務めている。彼の「勝ち続けた」記録は素晴らしい。アテネ、シドニー、アトランタと、三つのオリンピックで連続で金メダルを獲得している。勿論、オリンピックというのは4年に一度であるから、その期間にずっと勝ち続けていたわけではないのだが(実は彼は一度、正式にではないが現役を退いている)、しかし、3大会連続の金メダルというのは、そうそう出来る事ではない。そして、柔道が最も注目されるオリンピックという舞台で勝ち続ける事によって「野村は勝つんだ」というイメージを我々ファンに植え付けることに成功している。長嶋茂雄が、チャンス(つまり最も注目される場面)によく打った事から、実際の記録以上に彼は信頼を勝ち得た。それと同じ事なのだ。並大抵の事ではないだけに、その信頼は絶大だ。

その野村が、昨日はインタビューを受けていた。とても印象に残った言葉があったので、紹介しておく。

「今でも自分が一番強いと思っている」

私はこの言葉を発した野村の表情をブラウン管越しに眺めていたが、そこには絶対的な王者の自信が垣間見えた。どこぞのボクサーのはったりや虚勢とは全く異質な、真の「王者の風格」がそこには漂っていた。きっと、やってくれる。

問題は、重量級の主力選手の最近の不甲斐なさだ。

井上康生、鈴木桂司、今はお前達の時代ではなかったのか。勝ち続けなければいけない。反撃の時だ。早く戦列に戻って来い。

特に、上の二人には、柔道ファンとして並々ならぬ期待を持っているだけに、厳しいことも言いたくなる。

あまり柔道をご存じない方のために、今回のワールドカップ、私のオススメ選手を以下に紹介します。観戦の手助けになれば。

60kg級 野村忠宏 (強い)

66kg級 内柴正人 (巧い)

90kg級 泉浩 (ガッツ)

100kg級 石井慧 (若い)

100kg超級 棟田康幸 (意外と小さい)

さあ、頑張ってもらいましょう。期待します。

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2006年9月14日 (木)

充実と欠乏

昼間に、ここのところ無為な生活を送っているという友人とメールのやり取りをした。

その中で彼女から突きつけられた質問。

「充実とは何か」

柔道の元になった格闘技である。講道館において修練した前田光世がブラジルに渡り伝えた結果、それは南米の地にも根付く事となった。日本でも一時期人気を博したヒクソン・グレイシー、ホイス・グレイシーなどは、この格闘技の使い手である。

違った。それは「柔術」であった。下らない。

さてもう一度、「充実とは何か」

私はその時には適当な答えを返してしまった。あまり考えずに適当に。

しかし、その事が何か私の胸にひっかかる。こうやって人は痴呆になっていくのか?きちんと思考しない事は、私を不安にすらさせた。再度あれこれと考えるのも悪くはない。今日は一つ、「充実」という事について。

冒頭に私は「無為」という言葉を使った。何もしないでぶらぶらしている事。そういう風に解釈されている方も多いかとは思うが(実際私も冒頭ではその意味で使った)、この無為という言葉の語源は、老子の道のあり方から来ており、自然のままで作為のないことを指す。無為自然。つまり、一見すると「無為に過ごす事」は「充実している事」の反対の状態のようにも思えるが、そうではないという事になる。むしろ「充実している事」に近しい状態、という判断が出来なくもない。

こういった広辞苑的な考え方でいくと、充実とは「中にものがたくさん入っている状態」という事になり、ならばその反対は「欠乏」という事になる。

「ある」のが充実。「ない」のが欠乏。

果たしてそうだろうか。

わざわざ「再度考えてみたい」などと宣言しておいて、その挙句、広辞苑から引いて来たような言葉の意味だけを紹介して終わるのでは、考えたことにはならないだろう。それで良いのならば、「充実とは何か」と問われた際に、返答は「辞書を引け」の一言で全て解決なのだ。問題はそこではないのだ。

少し話題が逸れる。

「自由」という状態の事を思う。何回か前に、アメリカ流の自由は「権力」だ、と書いた。(http://whatdisay.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_1f53.html)それは私の私見であり、さして共感を求めない。そしてもう一つ。よく考えられる誤解。自由とは無秩序である、という事。

秩序の無い状態、何をしても誰にも咎められる事のない状態は、果たして「自由」なのだろうか。

無論、「自由」などではない。

では、果たして自由な状態とはどのような状態か、と考えるに、それは或いは「不自由」な状態になる事で初めて意識される状態なのではないかと私は思う。不自由な環境でこそ、人間は真に自由な状態になれるのではないか、私はそう思うのだ。法律の下でこそ人間は自由になれる、といったような遵法精神からそう言っている訳ではない。法律など、ある場合においては無秩序の象徴にすらなりうるのだから。

不自由の中で、自由を意識する。白いキャンバスに白い絵の具を塗った所で、白い絵の具は見えて来ない。黒いキャンバスに塗りつけて、初めてその白さは際立つように。

これと同様に、「充実する」為には、欠乏を知らなくてはならないのではないか。私はそんな事を思う。

極論であることを承知で言えば、充実とは、欠乏の中で充実を求めて足掻く事なのではないか、と私は思うのだ。つまり、充実した、と実感したその瞬間には、新たな虚無と欠乏が押し寄せ、充実した状態から再び離れてしまう。充実している事を実感しない、充実に向けた過程こそが、最も充実している瞬間なのではないか、と。

昨今の私は、「充実しているのか」と聞かれれば、俄かに「そうだ」とは答え難い。しかし、私は今、自らが充実しているような気もしている。欠乏した状態ではあるが、それが私の充実に繋がっているのではないか、と。

ならば貧乏も不健康も全てを甘受しよう。時折襲ってくる無気力さえも。

欠乏に甘んじてはいけない。欠乏から脱そうとする、その過程にこそ充実は潜む。

再度、考え直すことで、このような一先ずの結論に至った。

多分、明日になれば全て忘れている。

ちなみに今日は久し振りにキーボードで書きましたが、書き過ぎてしまいます。

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2006年9月13日 (水)

閉塞的散歩

雨が降っていたので、傘をさして散歩に出た。

雨の匂いを鼻腔に感じながら歩く。少し肌寒い季節になってきたなと思っていたが、十分も歩けば額に汗が滲む。時間が経っているのか澱んでいるのかわからなくなる時はこういう時だ。

歩きながら、定期的にクシャミをする。目が痒いので目頭を掻く。どうやら私は秋の花粉症になったらしい。何の花粉が原因だかは知らない。春にはスギだか何だかの花粉が原因で、同様の症状に悩まされるのが毎年の事であるが、そうか、秋にもそうなるようになったか。私の体はつくづく貧弱である。

花粉症、猫アレルギー、喘息。

頭も相当に悪いのは承知の上であるが、体も悪い。現代人、都会人特有の貧弱さである。自然の中で健康的な生活を営んでいる人たちには、縁遠い悩みであろう。この私の都会人的貧弱さについて、私は時折強烈な羞恥心を覚える事がある。今日もクシャミをしながら、その羞恥心の事を考えた。

三島由紀夫のあの強靭な体躯は、結局は虚弱体質であった幼少期の自分に対する羞恥心やコンプレックスの裏返しなのだな。ミシマという男は、そういう意味では自意識の強い人間であったのだな、と苦笑する。

ふと、都会人らしくジャンクな物でも食おうか、という気になる。

所謂ジャンクフード、日々食べるとなるとうんざりするが、時折何かのタイミングで食べたくなることがある。目の前にマクドナルドが見える。私はその原色の建物の中に入る。

いらっしゃいませこんにちは

画一的な店員の対応を受けて、閉塞した空間の事を思う。閉塞し、停滞した空間。ここには変化は求められていない。閉塞した空間は決して悪だとは限らない。場合によれば、それは美徳にもなりうるのか。私は眼前の若い綺麗な女性クルーを見て、ぼんやりとそんな事を思う。

割愛するが、注文の際にも画一的なやり取りを交わす。私も彼女の画一性に釣られるように、画一的な注文をする。チーズバーガーとアイスコーヒー。おかしな点は何一つ無い。だがそれが逆に何だか可笑しく感じる。

席について、アイスコーヒーにミルクとシロップを垂らす。垂らしながら周囲を窺う。

私の左隣には女三人男二人の五人組、以下「五人組」と呼ぶ。向かいには屈強な体をした若い男たち五人組、以下「アメフト部」と呼ぶ。右隣には疲れた中年男性、以下「リストラ」と呼ぶ。

「五人組」の内、一人の女は、自分の恋人の束縛について周囲に不満げに語っている。どうやら彼女の口癖は「ありえへん」だ。さっきからずっと「ありえへん」を連発している。

―もうな、他の男と喋ったらあかんとか言うねん。ありえへんわあ。

ありえない事も無いぞ、と私は心中相槌を打つ。世の中には大抵の事はありえるのだ。朝起きたら虫に変身している様な、そんなカフカ的な状況でさえ、ありえるかありえないかで言えばありえるのだ。アリエル・オルテガ。アルゼンチンのフォワード。下らん。

昼間から酒も飲まずにそんな話をしている君たちは、本当に賞賛に値する。それが若さだ。

向かいの「アメフト部」達は、どうやら次の試合のポジション決めをしているらしい。大声でウィングがどうだ、クウォーターバックがどうだ、と言っている。知った事ではないが。どうせ試合が終わったら打ち上げで「和民」あたりの居酒屋に行って、二次会はカラオケに行くんだろ。勝とうが負けようが、所詮私の知った所ではないのだが、次の試合は頑張りたまえ。と、心中で適当なエールを送る。

右の「リストラ」は、私と同様に独りだ。中年男性が昼間に独りでマクドナルド。寂しいとは思うが、私は決してあなたを嘲笑わない。あなたは或いは未来の私だからだ。

やはり私同様に、不味いアイスコーヒーにミルクとシロップを入れて飲んでいる。飲みながら本を読んでいる。本のタイトルは見えなかったが、きっと「50歳からの再就職」とかそんな本に違いない。彼はこの空間を良しとは思っていないだろう。若干の居心地の悪さを感じているはずだ。私も感じている。

彼はやがて居心地の悪さにいたたまれなくなって、逃げるようにマクドナルドを後にする。でも、結局は同じ事なのだ。マクドナルドから外に足を踏み出した所で、居心地の悪さは変わらない。監獄は、私達が考えている以上に広いんだぜ。

そんな事を考えていたら、彼はやはり居心地の悪そうな表情を浮かべて店を出た。

私もチーズバーガーをほおばり、早々に店を出た。

雨はまだ弱くならない。状況は何一つ変わらない。

鼻の辺りがむず痒くなり、私はもう一つクシャミをした。

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2006年9月12日 (火)

9.11に寄す

世界的な規模で見れば、365日、毎日が何かしらの記念日だと言って差し支えないだろう。2月9日は「肉の日」。そんな語呂合わせさえあるぐらいだから。誕生日や命日に限らず、人は何かと記念日を作りたがる。それは、何か大事な事を忘れないようにする為なのかも知れない。

昨日の事となってしまったが、9月11日という日が、「或る特定の人々」にとってのみならず、一定の共通した認識として「特別な日」になったのは、今から丁度五年前の事だった。アメリカ、ニューヨークの高層ビルに、飛行機が激突した。血が流れ、人が死んだ。今更説明するまでもあるまい。私は奇しくもその日、その数ヶ月後に戦場となり、同様に多くの血が流れた地、パキスタンにいた。

私自身の傾向としてある、イスラム圏の国々に対して評価が甘い、というのが関係しているものの、五年前のかの事件に関して、私はどちらかと言えばアメリカに対して批判的な姿勢を取ってしまいがちな所がある。つまり「因果応報」の四文字熟語が頭に浮かぶ、とそういう事だ。しかし自己弁護をする訳ではないが、当時日本でもなされていた「イスラムイコール悪」といった感じのステレオタイプ的偏重報道は本当に酷かった。「テロイコール悪」という正論さえ、その説得力と正当性を失いかねなかった。

アメリカという国家が敵と見なした国は、日本でもやはり敵国として扱われる訳ね、なるほど分かり易い。そんな風に独り毒づいてみたり。

何かにつけて私はアメリカ批判を繰り返してしまう。アメリカは嫌いなんだろ、と思われても仕方がないのだが、実のところ、私は「アメリカが好きか嫌いか」と問われれば、数分の躊躇の内、「多分嫌いだ」と答えるだろう。即答は避けたい。つまり、アメリカという国家にはその逡巡を誘うだけの、長所短所がある。しかもそれは、かなり「分かり易い」形で顕現化する。故に私も躊躇し、逡巡するのだ。

例えば野茂やイチローがメジャーリーグに渡った時、アメリカのベースボールファンは、彼らの事をその実力ゆえに歓迎した。王貞治のホームラン記録が、外人の選手に破られそうになると敬遠責めをするような、我が日本球界の島国的で閉鎖的な実情からは、俄かには考え難い。彼らは、イチローの新記録の数々を、手放しに賞賛し、歓迎した。アメリカの言う「自由(freedom)」の、極めて良質な一例であろう。野茂、イチローに限らず、アメリカという国は「受け入れる事」に関しては、日本とは比べものにならないほどに高い性質を持っている。受け入れたものをきちんと咀嚼し、自分たちなりにアレンジし、取り込む能力にも長けている。ジャズも、勿論その産物だ。

しかし、その「自由」は、時折「権力」とニアイコールになる事があるというのが、私がアメリカを憎む所以だ。自由を行使する為には、権力を掴まなくてはならない。発言力があっての自由だ。彼らの態度は、時としてそのようにとれなくもない。

ワールドトレードセンターに飛行機が激突した後、ブッシュは言った。「我々の自由が脅かされている」と。

それは自由ではなくて、権力だろ?

地位だろ?

覇権だろ?

そんな事を私は思った。自由なんていう綺麗な言葉で誤魔化すなよ。

ちなみに私は「ブッシュは好きか嫌いか」という質問には即答出来る。

大嫌いだ。

クリントンも嫌いだったが、ブッシュはそれとは比べものにならないほどに嫌いだ。「法律なんてものが無けりゃ、お前なんかとっくに殺してるぜ」リストの上位に入る。

昨今のレバノンーイスラエル情勢に関してもそうだが、アメリカ、本当にこのままで良いのか!?

第三次世界大戦は間もなく勃発するだろう。

何を争う戦争か。

勿論、覇権だ。

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2006年9月10日 (日)

スケジュール 9月中盤以降

9月中盤以降のライブスケジュールをアップしました。

本数は少ないですが、楽しみなライブがいくつもあります。是非おいで下さい。

2006年9月

9月12日(火)北山 mojowest  tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/
sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 ds:古賀俊輝 pf:福島剛
毎月第2火曜は何があろうとmojowestで、このメンバーでやってます。
20:00~start  music charge:1500円with1drink

9月17日(日)出町柳MAAM tel 075-771-3190
http://www.kyotozanmai.com/user/maam/maam/
vo:小場未明 gt:鳥居直介 b:岩山健 pf:福島剛
大学の先輩鳥居氏のバンドfrom東京です。ボーカル、ベースの方とは勿論初共演。
19:30~start  music charge:1700円with1drink

9月22日(金)祇園 pick up  tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start  music charge:2000円

9月23日(土)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
vo:須和龍一 sax:黒田雅之 pf:福島剛
ブルージイなものではなく、ブルースそのものをやります。男だらけで。
20:00~start  music charge:カンパ制

9月30日(土)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
vo:岩井繭子  pf:福島剛
ビールに舌鼓を打ちながら、ボーカルとデュオ。
21:00~start music charge:カンパ制

2006年10月

10月7日(土)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
sax:黒田雅之 pf:福島剛
グリニッジハウス、初めて昼間にやってみます。
15:00~start  music charge:カンパ制

10月8日(日)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
pf:福島剛
月イチ恒例、ソロピアノ。楽しくいきます。
21:00~start music charge:カンパ制

10月10日(火)北山 mojowest  tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/
sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 ds:古賀俊輝 pf:福島剛
毎月第2火曜は何があろうとmojowestで、このメンバーでやってます。それが仮に体育の日であっても。
20:00~start  music charge:1500円with1drink

10月13日(金)祇園 pick up  tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start  music charge:2000円

10月15日(日)岡崎 ZAC BARAN
tel 075-751-9748
http://www.secondhouse.co.jp/
ts:福代亮樹 b:鶴賀信高 pf:福島剛
普段は比較的クールな福代・鶴賀両名が「アホ」になる日です。
19:00~start  music charge:カンパ制

10月20日(金)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
ds:田中久仁彦 b:鶴賀信高 pf:福島剛
やろうかと前から言っていた後輩の田中久仁彦くんのトリオ、やっと始動します。
20:00~start  music charge:カンパ制

10月21日(土)深草ざぶざぶ
tel 075-642-6348
http://www7a.biglobe.ne.jp/~zabuzabu/
vo:岩井繭子 b:鶴賀信高 pf:福島剛
かの伝説のドラマー「ケン坊」さんこと村上健三郎さんのお店です。初出演です。
19:30~start music charge:1500円

10月22日(日)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
ds:副島正一郎 b:椿原栄弘 pf:福島剛
ロック+ブルース+ジャズ=ニューオーリンズ(???)。御馴染みNEZOEです。
20:00~start  music charge:カンパ制

10月27日(金)祇園 pick up  tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start  music charge:2000円

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2006年9月 9日 (土)

無頼派ルネッサンス

太宰治、坂口安吾、織田作之助、石川淳、壇一雄…

上に挙げた方達は、皆作家だ。いや、当時の時代性を加味して「文士」と呼ぶ事にしようか。昭和初期から戦後にかけて、文学というフィールドにおいて、綺羅星のように輝いた人達だ。

その呼称が適切か適切でないかは別にして、彼らは時折「無頼派」などと称された。私はいまいちこの呼称にピンときていない。漱石や鴎外を「高踏派」と呼んだり、藤村や花袋を「自然主義文学」と呼んだり、そういった呼称はえてして的外れなものが多いという印象が強いが、この「無頼派」という呼称も同様にピント外れなものを感じる。故に、以下、彼らに対して私が「無頼派」という言葉を使う時、それは便宜的な括りだと思って頂きたい。純粋な記号である。

太宰の『人間失格』、『トカトントン』、『斜陽』。

安吾の『堕落論』、『桜の森の満開の下』、『白痴』。

オダサクの『夫婦善哉』、石川の『焼跡のイエス』、壇の『火宅の人』。

ここに挙げた作品に限らず、私は「或る一時期」、彼らの作品を貪るように読んだ。本の随所に線を引き、気に入った箇所は有り難いお経のように何度も口に出して覚え込み、自らの滋養として、そして確かな通過儀礼として彼らの作品に触れた。正直に言おう。私は彼らに並々ならぬ憧れを感じていたのだ。

「或る一時期」と書いたが、それはまさしく「或る一時期」であった。具体的には私が中学生から高校生の頃だったと記憶している。

麻疹(はしか)という病気がある。発熱と斑点様紅色の発疹、鼻や咽喉のカタル、結膜炎を伴う幼児の病である。大人になれば、免疫が出来てかからなくなると言う。この一時性をもって、彼らの文学に「若い人達」が熱中する事を、麻疹の名前で揶揄する事がある。確かに発熱はするのである。比喩的にも、実際的にも。そして私ももちろん「麻疹」にかかっていた。大学生になってしばらくすると、その病は収まった。寧ろ「ダザイが、ミシマが」と言う事に、或る特定のセリフを吐く事に、何とも言えない居心地の悪さを感じるようにすらなってしまった。しかし、多分これは特殊な事ではない。私と同じような体験をされて来た方は少なからずいる筈だ。

誤解を恐れずに、ひどく乱暴に上記の五人を紹介しよう。作品以外の部分に焦点を当てて。各々のファンの方がいらっしゃれば、怒らずに読み進めるか、或いはコメントの欄に補足説明を願いたい。

まずは太宰治。青森の田舎で生まれた「生まれてきてすみません」の作家である。何かあればすぐに「死のう!」と言う男である。自意識過剰。女誑し。将棋好き。

坂口安吾。自称「偉大なる落伍者」。覚醒剤で目覚め、睡眠薬で眠るような男。金にはだらしなく、借金に借金を重ねる。部屋が汚い事で有名。ダンヒルのライターを愛用する競輪キチガイである。

織田作之助。オダサクの愛称で親しまれた大阪の不良文士。革のジャンパーの裾をまくり上げて人前でヒロポンを注射する。顔面蒼白の長髪を額に垂らしながら。わざと自分をバカに見せたがる所がある。

石川淳。浅草生まれの酒飲み。口癖は「バカヤロウ」。一時期は福岡で教鞭をとった、という話は俄かには信じがたい。酒を飲む時は、「なくすから」という理由で時計も定期も財布も持ち歩かない。

壇一雄。今では娘の壇ふみが有名。ボロ家で暮らしていた貧乏な酒飲み。写真だけ見れば、何よりも分かり易いアル中の顔。数々の奇行でも有名。

さて、ここに私が書いた事は、嘘でも偽りでもない。どれも全て彼らのムチャクチャな人生の「ほんの一面」だ。上に書いたような事からも容易にわかるように、彼らは筋金入りの「困った人達」なのである。

故に、その「無頼派」である彼らに憧れていた私自らを鑑みて、言いようのない気恥ずかしさを感じた事があった。何を私のごとき凡人が、彼らの言葉を借りて無頼を気取っているのか、破滅を美しいと思う、などとは青臭い。自らをそうして罵倒すればするほど、そして私が彼らや彼らの作品群に強い思い入れを持っていたからこそ、顔面はますます赤面した。

ところが最近、ふと安吾の『堕落論』を久しぶりにパラパラと捲った。何遍も何遍も読み返した本であったが、これが驚くほどに面白い。食い入るように読み入ってしまう。これまでに気付かなかった新たな発見も随所にある。

私は一つの結論に達した。

私は、彼らを、追憶としては、読めない。

彼らは未だに私の憧れであり、彼らの本に強く影響を受けた私は、今もなお「安吾的思考」や「太宰的自意識」を抱えている事に改めて気付かされた。

彼らの事を追憶として読むのは、まだ早過ぎた。彼らは私にとって、強力に「現実」であった。

安吾と小林秀雄の対談などを引っ張り出してきて読む。

面白え。たまらんな、おい。

吉本隆明の『太宰治試論』を読む。

面白え。

無頼派、再考。いや、再興。

小学生が中学生になるに従って、メンコやビー玉で遊ぶのが気恥ずかしくなって来る。私の世代では、ミニ四駆やカードダスだろうか。私は無頼派の本を読むのが徐々に恥ずかしくなるのは、そんな事にも似ているか、とも思ったが、それは全く別物だった。

彼らの本が、今、私の中で再びアツい。その事が書きたかったのである。

あちらこちら命がけ

戦後日本文学、面白い!

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2006年9月 7日 (木)

間抜けな悪夢

物凄く変な夢を見た。

この9月、私はインドへ行く予定だった。8月の段階でそれを決め、飛行機の切符を買っていた。

なのに、その後その事をすっかり忘れ、怠惰な日々を過ごす私。ふと「あ、オレインド行くんだったっけ」と思い切符を見ると、

departure 2006/09/02

の文字。ウワー、もう過ぎちゃってんじゃん!やっちまったー!物忘れが激しいのもここまで来たかー!何でよりによって、インドを忘れる?馬鹿!オレの馬鹿!

と思ったら夢だった。良かった。

よく考えたら、パスポートの期限も切れてるし、無理なんだよね。

しかし、インドに行きたい。行きたい。行きたい。

色んな事が片付いたら、1ヶ月だけでもいいから行ってこようかな。1ヶ月っていうのは無理かな。もっと居たくなってしまうだろうな。でも、行きたい。

久しぶりにインドの夢を見たら、こんなお間抜けな夢でした。

追伸。パソコンをここの所さわれていないので(携帯から更新してます)、折角頂いているコメントも見れてません。近々きちんと見ますので、コメントを下さった方、どうぞ気を悪くなさらぬよう。

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2006年9月 5日 (火)

蕎麦という文化

月にむら雲花に風。世の中の好事にはとかく障害が多い。

立ち食い蕎麦屋に行くと、私は大抵月見そばを頼むが、月見そばを食べる時はこの言葉が頭をよぎる。ホラ、汁の上で卵の白身がほんのり白くなっている様子が何か雲のようにも見えるじゃないですか。

蕎麦という食べ物が好きだ。何か好きなものを食べていい、馳走してやる、と言われたら、私は多分カレーかラーメンか蕎麦、と言うだろう。小学生のような味覚。仕方あるまい、好きなんだもの。最近は何につけても金が無いので、とんと外食から遠のいているが、私は本来外食が好きなのだ。金があるならば、毎日外食したい。そしてホテル暮らしがしたい。余談だがホテルなるものも好きなのだ。白いシーツ、無機質な部屋、折り目正しい従業員の挨拶。

話が逸れた。今日は蕎麦の話をしようと思っていたのだ。

私が蕎麦を食べる時には、食べる店のタイプは、二つに分けられる。

一つは所謂「立ち食い」蕎麦屋。月見そばが三百円もしない。水は大抵がセルフサービスだ。嘘みたいな本当の話だが、立ち食い蕎麦屋にはクォリティにかなりのバラつきがあり、たまに「当たり」の店に入った時などは、「この値段でこの美味さ、本当に良いのか?」と我が目を疑いたくなる。

もう一つは、蕎麦湯の出て来るような「正統派の」蕎麦屋。ザルは一枚六百円前後。中島みゆきの歌詞にもあるのだが、風が暖簾をバタバタ鳴かせて、ラジオは知ったかぶりの大相撲中継をしてるような店が良い。

ちなみに、世間にはたかだか蕎麦如きで一杯千円二千円もの金額をせしめる不届きな店もあるが、それは蕎麦屋の風上にもおけぬ、と、今回はその存在を無視する事にする。蕎麦は高級料理ではないのだよ。勘違いするな、馬鹿者が。

という事で、蕎麦屋のタイプは以上二つである。これら二つのタイプの蕎麦屋に対して、「どうせ蕎麦屋なんだから一緒だろ」と高を括るようなスタンスでいると、蕎麦の世界は楽しめない。あくまで参考までに、という事なのだが、私なりの楽しみ方をそれぞれ紹介しよう。安価にして奥深き蕎麦の世界へようこそ。

まず、立ち食い蕎麦屋の楽しみ方である。これは、いかに刹那の関わりを楽しめるかという、大袈裟に言えば「人間力」が試される場だ、と思って頂いて結構だ。

つまり、端的に言えば、立ち食い蕎麦屋においては、我々はウエットな人間関係を求めてはならない、という事だ。

暖簾をくぐる。さっと店内を見回したら、直ぐに注文をしよう。昨今は、自動販売機による食券制の店が増えてきたが、直接に口頭で注文をする店も未だにいくらでもある。間違っても「今日のオススメは何ですか」などの質問をしてはいけない。愚の骨頂だ。私の場合は、殆どが月見そばであるが、気分によっては天ぷらそばを注文する。勿論、立ち食い蕎麦屋の天ぷらそばとは、かき揚げの乗った蕎麦の事だ。海老の天ぷらが乗ってない、などと怒らないように。

注文した品がやって来たら、七味唐辛子を好みでふりかけて、無駄口を叩かずにさっさと食べる。美味くても不味くても、表情に出してはいけない。啜る際に音が立つ事など気にしてはならない。一心不乱に蕎麦を啜るのだ。それは純粋な「行為」である事を知るべし。

食べ終えたら、「ごっそさん」ぐらいの一言で店を出る。美味かっただの不味かっただの、余計な愛想は不要。そんな事を口にする暇があるならば、爪楊枝で歯間の葱でもほじっていれば良い。長居は無用。寧ろ無粋だと思って頂きたい。くどいようだが、立ち食い蕎麦屋というのは、「蕎麦を食す」という「行為」を純粋に楽しむ所なのだ。それ以外の楽しみは、「正統派の」蕎麦屋で楽しめば良い。それは、以下に記す。

「正統派の」、テーブルと椅子に腰掛けて食べるような蕎麦屋。こういった店の楽しみ方は、立ち食い蕎麦屋とは大きく異なると思って頂きたい。もう少し、のんびりと行きたいものだ。

暖簾をくぐる。席に着く。店員が茶とおしぼりを運んで来る。これは私の経験からだが、蕎麦屋の店員というのは必要以上に媚びず、場合によれば無愛想にも見える事が多々あるが、そこはそんなものだ、と思っておいた方が良い。実際、そんなものなのだ。

茶を一口啜ってから、「お品書き」にざっと目を通す。あまり時間をかけるのも無粋である。この手の店の場合、私は殆どはざるそばを頼むが、これもやはり気分によっては、たぬきそばを頼む事もある。今は、仮にざるそばを注文したとして話を進めよう。

注文の品がやって来るまで、多少時間がかかる。その間、独りならば新聞を読んだりテレビの相撲中継を見たりして時間を潰すが、誰かと一緒の場合は、会話に興じる。

−あいつ、この間こんな失敗やらかしたらしいぜ。

−あいつもバカだな。昔っからそういう所あるよな。

−お前も人の事言えた義理かよ。

−ちげえねえ。

イメージとしてはこんな会話だ。そんな非生産的な会話を交わしていると、ざるそばがやって来る。お待ちどうさま。

薬味は葱と山葵と海苔か。漬け汁の中に程良く薬味を入れて(私は全入れ、という邪道な拘りを持っている)蕎麦を啜る。この際にも、あまり大袈裟な会話は慎みたい。

−おいおい、山葵入れすぎじゃねえか?体に悪いぜ。

とか、その程度で良い。

蕎麦がなくなれば蕎麦湯を頼み、漬け汁に注いでそれを味わう。

食べ終えたら、私は大抵ビールを頼む。蕎麦屋でビール。これがたまらなく好きなのだ。気分が良いと、そこに板わさの一つも頼みたくなる。蕎麦屋。眼前には板わさと瓶ビール。何の生産性もない、停滞した時間がそこにはある。ゆっくりと、ゆっくりと時間だけが流れていく。

という事で、極私的な蕎麦の楽しみ方を書いてみました。

書いていたら蕎麦が食いたくなってきた。朝一の立ち食い蕎麦屋にでも、ちょっくら行って参りやす。

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2006年9月 4日 (月)

出来レース

少しだけ時事ネタをぶちます。御了承を。

ポスト小泉、次期総理を決める一連の動き、どうやら安倍晋三で決まり、という空気が既に流れているようだ。何だかなあ。

安倍晋三については、私はあまり肯定的ではない。特に日米間の関係について、「より(日米関係を)濃密にする事によって、日本側の発言権が増す」という彼の意見には、私自身かなりの疑問を持っている。多くは言うまい。

憲法の見直しに関しては、見直し、それ自体は大いに結構だと思っているが、きちんと「独立国家としての憲法」を作れるのだろうか。今は時期尚早、結局、改悪、となりはしまいか、と、私はそういう見解だ。

あまり文句ばかりを並べ立てるのもナンセンスだ。彼になるならばなるで、我々もそれ相応の覚悟を決めなければならないし、やはりなるからには少しぐらいは期待もしたい。小泉純一郎がやらかした幾つかの失敗の尻拭いもあるが、頑張って頂きたい。

この一連の流れの中で一番私の癪に触ったのは、「圧倒的安倍優勢」の現状を見て、カメレオンのように態度を変えている連中だ。これまで「安保撤廃」を謳っていた連中の中でも、「継続、見直し」という安倍路線にシフトチェンジし、また憲法問題に関しても意見を変える者多数。おいおい何をしとるんだ、と鳥肌実のアクセントで、独り毒づいてしまう。

結局、内閣組閣後の人事の際に有利に働くように、との事なのだろうが、そんないい加減な連中によって組閣された内閣など、政策など有って無し、という事になってしまうのではないだろうか。政治的信念よりも大多数の論理、結局長いものに巻かれる、これまでの日本政府の悪い体質が尾を引くのではないか、と懸念している。

もし仮に、麻生、谷垣のどちらかが奇跡的に勝った場合、コロコロと意見を変えていたご機嫌伺いの連中はどういう対応をするのだろうか、それが気になるので、私は麻生、谷垣の奮闘に期待している。

でもどうせ、安倍で決まりなのは知っている。今回、麻生、谷垣という対抗馬を立てたのは、結局この総裁選を利用して、自民党が安倍、麻生、谷垣の三人を世間にアピールしたかっただけなんだろうな。下らん。

こうして政治ネタをぶつと、とても気持ちが沈む。なら書かなきゃ良いのだが、ついつい書いてしまう。

いつになったら、日本政府はアメリカ政府の腰巾着でなくなるのでしょうか。それが、当面、私の一番の興味です。

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都市生活と琉球生活

怠惰な休日。酒なぞ飲みながらテレビを見る。昨日もテレビの事を書いたのに。

日曜日は『情熱大陸』を見る。好きなんだ、いいだろう?今日取り上げられていたのは、森崎尚子という女性、主婦。『情熱大陸』という番組の良い所には、こういった「メディア的に主流派ではない人達」を取り上げる、といった所がある。「名も無き人々」を魅力的に描き出す事に関しては、『情熱大陸』という番組は特異な力を持っていると私は思う。

今日取り上げられた森崎尚子という方は、沖縄で自給自足の生活を営む主婦であった。正直に言うと、そういったエコロジーな方々は、私はどちらかと言えば嫌いなので、「どうせ面白くねえんだろ」という気持ちで見始めたのだが、こうして書くぐらいである、結構面白かったのである。あまつさえ、私に「沖縄の生活って結構良いじゃん?」などと思わせるかのように。

森崎尚子さんの特筆して注目したかった所は、その「アピール力の弱さ」である。

エコロな人々はえてして、「自分はこんなに素晴らしい生活を送っている」というアピールに終始し、都市生活を非難し、「本当の豊かさとは?」みたいなサムい事を言い始める。

知らんよ、そんな事。勝手に豊かになっとけよ。俺は貧しくて良いよ。そんな独り言を呟いてしまうが、この森崎尚子さんは、そこまで自分の素晴らしさをアピールしたり、他人の都市生活を非難するような事は無かった。何よりも「良いな、好きだな」と私が思ったのは、彼女は自分の生活形態を、「或る一形態」程度の認識で捉えており、それが「最善の形態」だとは考えていないであろう、という点であった。

そういった暮らしもある。

そうでない暮らしもある。

私は当面、都市生活者である。その事に今の所不満はない。殊更に他人から批判される筋合いはないのだ。

そして私も森崎尚子さんを批判しない。単純に良いな、と思う。彼女は多分、決して都市生活者を批判しない。

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2006年9月 2日 (土)

竹内海南江さん

家に帰って来て、8時ぐらいから夕飯を作ったりしながらダラダラとテレビを見る。怠惰。たまにはいいだろ。

九時からTBSの「世界ふしぎ発見」を見る。久し振りだ。そうか、土曜日の晩は仕事してる事が多いんだった。最近仕事が少ないな。飽きられたんだろうか。まあいいや、コツコツやろう。

世界中の様々な国々の文化、自然を紹介していく「世界ふしぎ発見」。今日はアイスランドとグリーンランドであった。トンでもない所に行くな、しかし。

今日のミステリーハンターは竹内海南江さん。昔からなんだけど、この人、好きだなあ。どこ行っても何でも食べるし、何でもするし。蟻とかムカデぐらいだったら、あ、そんぐらいなら楽勝です、みたいなノリで食べるもんな。しかも変に奇を衒う訳でもない。大したものだなと思う。もう二十年近く「世界ふしぎ発見」に出てるから、そこそこ年齢もいっている筈だが、こういう人は幾つになっても綺麗だわ、やっぱり。

ここまで書いた辺りで猛烈に眠くなって来たので、寝ます。お休みなさい。

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2006年9月 1日 (金)

若年性アルツハイマー

ここ何年か、物忘れが激しい。

買い物に行く時、買わなくてはならない物が全部で五点あったとすれば、四点買えれば上出来だ。忘れないようにメモを書いても、そのメモを家に忘れてしまう。

傘は、あまりに失くしすぎるので、なるべく持たないようにしている。

お茶を淹れようと思ってお湯を沸かしていた筈なのに、そのお湯を沸騰させている間に、お茶を淹れるという当初の目的を失念し、気が付けばそのお湯で饂飩なぞを茹でる始末。

今、何考えてたんだっけ?

今、何喋ろうとしてたんだっけ?

そんなのは日常茶飯事だ。

あれ、そう言えば俺たちは何をするんだっけ?

ゴドーを待つんじゃないか。

ああ、そうだった。

そんな感じだ。

話によれば、泥酔するほどまでに酒を飲んだ時というのは、酒によって、普段ではありえないほどの数の脳細胞が死ぬらしい。私の日常で、泥酔しない日というのは一年に50日ぐらいなので、残りの315日は、尋常ではないスピードで脳細胞を殺しているわけだ。そんな生活は、もう十年近く続いている。十年でやっと、その影響が出始めたのだろう。自業自得なので仕方がない。

この物忘れによって、一番困るのが、「言葉」である。

漢字がなかなか出てこない。英語も単語が出てこない。

「おおげさ」ってどう書くんだったかな。

パソコンならば良い。「おおげさ」と入力すれば、「大袈裟」とすぐに出てくる。自筆で書く時に困るのだ。こんな簡単な漢字も分からない。

簡単な英文を読んでいても、びっくりするような単語がわからない。

inevitableって何だっけ?辞書を引く。これ、絶対に知ってる単語だぜ、なんて思いながら。

必然の。不可避の。

おい、こんなのも忘れてるのかよ。

少しね、抗いたいです。最近、脳を鍛えるトレーニングとか何とか言うのが流行っているらしいが、その存在は多分、すぐに忘れると思う。

忘れたいことはたくさんあるので、それらを忘れるのは構わないけれど、どうしても忘れたくないこともある。そんなに沢山ではないけれど。

一つずつ、大切に思い出していこうかな。

スヌーピーが好きな人の事とか、ピアノを弾くのが上手だったオッサンの事とか。

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理。敢えて嫌う。

ここの所、旅の日記ばかりだったので、少しは日常の事を。

ライブハウス、モジョウエストでやって来ました。

演奏の内容が良かったのか悪かったのかは私が決める事ではないので、何とも言い難いが、久し振りに滝のように汗をかき、手の皮がズル剥けるようなテンションでやってきた。勿論反省し、次回に活かさなければならない点も多々あるが、とりあえずは疲れて帰って来てメシを食らう。気分は悪くない。

一昨日ぐらいに米を炊いたのだが、それが電子ジャーの中で固くなり始めていたので、味噌と若布と玉子でおじやを作る。貧乏料理には間違いないが、疲れて腹が減っているからか美味く感じる。貧乏、悪くはない。満足したらまずいのだが。

ジャズは儲からない。でも、それを言い訳にしたり、その事をグチグチ言うのはとても格好悪いと思う。プロならば金にはシビアでなくてはならない。けれど、そればかり言うのは覚悟や決意が足りないのではないかと最近は思う。生意気な事を書いているが、確かにそう思う。

落語家立川談志は、弟子たちに「通常の」アルバイトを禁じたという話を聞いた事がある。芸人になりたいんだったら、真っ当になど働くな、突拍子もない事で金を稼いでこそ芸人だ、と。それはすごく極端かも知れないが、家元のそういう考え方には納得する部分も大きい。

効率や合理性には、とても甘美な魅力があるが、芸というのは、ある意味ではそういったものの対極にある。計算ばかりしていたら、学者になってしまう。無論、バカでも困るのだけれど。

少し取り留めがなくなり過ぎてしまったので、今日はこの辺で。

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