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2006年8月10日 (木)

駐車場にて

あまりに気が沈んでいたので散歩に赴く。きちんと白日の下を歩くのだ。そんな事を考えながら。

スニーカーを履いて家を出る。暑い。しばらくして、私の精神と体を形作るものは、全て正しくないものであるかのような錯覚に陥る。少し歩いただけなのに息が切れる。何かが間違っているのだろうか。全てが間違っているのだろうか。わからない。

暫く歩いた後、駐車場にいる猫と目が合う。いささか太った猫だ。日陰になっている部分に座った彼は、私をじっと見る。彼は私から目をそらさない。私も彼から目をそらさない。私は彼に話があったので、近付いていく。彼は微動だにしない。私の姿を見据え続ける。私が彼の眼前まで来ると彼はそっと瞼を閉じた。

私は彼の傍らにしゃがみ込んだ。

彼はゆっくり瞼を開けると、虚空を見つめるようなうつろな表情で口を開いた。

「何か話があるんだろ。何だね。」

私は確かに彼に話があったが、真正面からそのように聞かれると、狼狽し、何を話すべきだったかを失念してしまった。正直にそれを白状する。

「確かについさっきまではあったが、たった今失念した。すまない。」

彼はやはり動じた様子もなく

「そんなのはよくある事だ。気にするな。かく言う俺も記憶力は決して良くはない。」と言った。「ただし、」と彼は続けた。

「必ず覚えておかなくてはならない事というのはある。覚えておかなくてはならない事とそうでない事とを、一度頭の中で分けておくと良い。それだけでも随分と変わる。」

私は彼のその言葉を一度反芻してから答えた。

「しかし、そのように分けていった場合、僕などは殆どが覚えておくべき記憶ではない、という事になるかも知れない。覚えておかなくてはならない事が、今の所ぱっと思い浮かばないのだが、君の場合は何だい。」

彼は気怠そうに一言「にゃあ」と答えた。肝心な所はそう簡単には教えない、という事なのだろう。私は少し苦笑したが、彼は表情を変えなかった。

「ところで」彼が口を開いた。

「お前は北極に行った事があるか。」唐突に尋ねられた。

「ない。突然何故だい。」

「こうまで毎日暑いと、氷の世界の事ばかり考えてしまうのだよ。北極でかき氷でも食べていたい。それだけだ。」

「そうか。君は猫舌かい。」

「当然だ。猫舌でない猫がいるものか。熱いものはダメだ。冷たいものが食べたいのだよ。」

そうか。と私は頷いた。

「俺には飼い主がいてな」と彼は再び話し始めた。

「つい先日の事なんだが、俺に向かってこう言うんだな。お前のつらそうな顔は見た事がない、と。それには少し俺もカチンと来た。俺は俺なりにつらい事に耐えながら猫の生活を全うしている。そのつもりでいるからな。猫には猫の生活があり、つらさがある。人間もそうだろう。比べてはいけないんだ。わかるだろう。」

わかる気がする、と私は答えた。

「猫というのは孤独かい。」と私は尋ねてみた。

「そこは大体人間と同じぐらいだ。何とも言えん。」と彼は答えた。

そうか、と私が言う。

そんなもんだ、と彼が言う。

「そろそろ行くよ。ありがとう、君と話せて楽しかった。」私は言いながら立ち上がった。

彼もうーん、と背筋を伸ばしてから「俺も楽しかった。また会おう。」と言った。

私は「じゃあ」と言った。

彼は「にゃあ」と言った。

そして、駐車場の壁をヒョイと飛び越えて、どこかへ行ってしまった。私も、家へと足を向けていた。

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