北紀行 最終章
何回かに分けて書いてきた今回の旅行記だったが、これで最後にしようと思う。最後のまとめです。
もう北海道を後にしてから一週間以上が過ぎ去っていることに、いささか奇妙な感覚を抱く。一週間前には私はあの北の大地にいたのだな、と思うとあまり現実感が無い。今、私は京都にいる。そして無為の日々を過ごしている。旅の期間を「非日常」と考える事は私はあまり好きではないのだが、しかし、実際にそれは「非日常」であったのかも知れない。そして、この京都に戻ってきた日々が「日常」か。うむ、それはあながち間違いではない。
Tと旭川で別れてから、私は再び鈍行列車に乗り青森を目指した。旭川から小樽、小樽から長万部、長万部から函館、函館から木古内、木古内から蟹田、蟹田から青森。
乗換えが上手くいけば、何とかぎりぎり一日で着く距離である。乗換えが上手くいけば、そしてノーミスでいければ、である。
当然私には無理な話である。小樽でラーメンを啜ったり、長万部で街中を彷徨いたり、そうこうしている間にその日の間に辿り着けるのは、北海道の南西端近く、木古内までだという事が判明した。仕方あるまい。函館の手前、五稜郭駅で電車を乗り換えて、終点の木古内まで寝てしまおう、と眠りに着く。
終点。
木古内か。
木古内ではない。
七飯?どこだそこは。
私は電車を操縦していた中年の車掌に尋ねる。
―木古内ってここから乗り換えですか?
―何言ってんだよ、全然方向逆だよ。
しまった。やってしまった。お得意の逆走だ。私は電車に乗る際に、あまり行き先を確認しない悪癖があるので、ここまでにも何回もこの逆走をやらかしてきている。
そうした時は決して焦ってはいけない。仕方ない、と腹を決める。誰が悪いわけでもない。私が悪いのだ。
反省?もちろんしない。当然の事ながら、学習もしない。
こういう時、私はただ「諦める」ようにしている。七飯の街(村?)並みを見渡す。見事に何も無い。よし、今日の野宿はここかな、何も無い村での野宿は私は決して嫌いではない。そう思っていたら、車掌が私に話しかけた。
―この列車ね、回送で函館まで行くから、特別に乗っけていってあげようか?
私は暫し思案する。頭の中では、この七飯で野宿をする心積もりであったからだ。
しかし、その心積もりは所詮即席のものであり、即席に彼方に消し飛ぶ。
―お願いします。
私は車掌に頭を下げていた。
回送の電車というのも、出発する時間、到着する時間がきっちりと決まっているらしい。私はそんな事は初めて知る。日本の鉄道事情は、私が思っているよりも遥かに緻密なのかもしれない。
回送電車が出発するまでの数十分間、私はその車掌と世間話に興じる。気さくな車掌であれこれと私に喋りかけてくる。私も話し相手に飢えていたし、願ってもない。
―青春18切符かい?
―ええ、そうです。
―どこからだい?
―電車は、東京からです。住んでるのは京都なんですけど、京都から東京までは夜行バスを使ったんで。
―へえ、遠いねえ。これから帰りかい?
―ええ、まあ、ゆっくり帰ろうとは思っていたんですけれど。
幾つかのやり取りを交わす内に、少しずつ私と車掌とも打ち解けてくる。それと同時に、夜中の電車の中で、中年の車掌と貧乏ったらしい格好をした私とが二人で会話をしているという奇妙なシチュエーションに、我ながら楽しくなってきてしまう。
―北海道、すごく楽しかったです。一週間ぐらいしかいれませんでしたけど。
―そうかい、そりゃあ良かった。夏は涼しくて良いよね。
―車掌さんは、ずっとこちらにお住まいですか?
―いや、若い頃は東北にいたけどね。電車に乗るようになってからはずっと北海道だ。もう三十年以上になるよ。
そう言った中年の車掌は少し苦笑いを浮かべた。どうにもならんよ、という事なのだろうか、それとも、様々な意味を含めた自らへの肯定の笑みだったのだろうか。
―オニイチャンな、
ふと車掌がこちらを向き直して言った。
―はい。
―そんな気ままな旅が出来るのは若い内だけかも知れないよ。
―そうかも知れませんね。
私も内心苦笑する。26歳。周囲はもう勤め人として立派にやっているのに、私はまだこんな風転の生活をしているのだから。
―でも、そういう体験は俺は良いと思うけどな。
その言葉は、何だか社交辞令とはまた少し違うニュアンスを持った言葉のように私には響いた。
―そうかも知れませんね。
私も曖昧に言葉を返す。
―ただな、オニイチャン。
―はい。
―電車の行き先だけはきちんと確認しなきゃなんねえよ。ほんの一瞬の注意でミスはなくなるンだから。
―ええ、まったく。
私にはそう言葉を返す以外には、バツの悪い笑みを浮かべるしかなかった。
―あとな。
何か格言染みた事でも言わんとする雰囲気で、車掌は身を乗り出した。
―年がいってから、そんな風にフラフラしてると痛い目見るぜ。
―はあ、何故ですか?
いささか神妙だった面持ちを車掌は一気に綻ばせて言った。
―家族が逃げちまうんだあ。
ああ、そうかと私は笑った。投げやりな笑いではなかった。
―もう行こうか、ぼちぼち時間だ。
そう言うと、車掌は運転席へ戻り、幾つかの機械的な確認の動作を行ってから、電車を走らせた。
私は電車に揺られながら、この数日の事を思い出したり、取り留めの無い空想に浸っていると、電車はあっという間に函館へ着いた。
函館駅で車掌に礼を言って、その列車を後にする。
―気をつけて行くんだよ。
そんな声が後ろから聞こえる。私ももう一度後ろを振り向き、頭を下げる。
しばらく歩きながら、今晩の事を考える。
函館で野宿するか、それとももう一度電車に乗って木古内まで行くか。そう思いながら函館の街に降り立つ。
その時、私の目に深夜急行列車の文字が目に入る。上野行き。23時過ぎの発車だそうだ。
私は財布の中身と相談しながら、恐る恐る駅員にその深夜急行の金額を聞く。
2万3千円。
見事なほどに、ぴったり私の全財産であった。
この切符を買ってしまえば、私の財布は空になる。しかし、私は、ここまでの偶然の一致だ、これはもう上野まで深夜急行に乗ってしまえ、と腹を括って、その切符を購入した。後は野となれ山となれ。いつもこういう場面では、私は後先の事など考えずに思いつきだけで行動してしまう。こういった部分は、きっと死ぬまで直らないのだろうな。仕方ない。
切符を買ったのが午後9時過ぎ。電車の発車までには二時間以上があった。私は最早歩き疲れていたので、函館の路上で漫然としていた。(数回前の「箸休め的な更新」だか何だかを参照頂きたい)これから、本州に帰る、という気持ちと、やはりこれから「日常」に帰る、という気持ちが入り混じって、何とも寂しい気持ちになる。函館駅の、不自然に華美なイルミネーションを眺めながらぼんやりとする。ああ、もう終わりだ。
今回の旅で私が得たもの。
無論、何もなし。
今回の旅で私が失ったもの。
不思議なことに、何もなし。
私は停滞している。
列車が出る。ドアが閉まる。私は、北海道を後にした。
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