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2006年7月 1日 (土)

innocence一考察

昨日、少し触れたinnocenceという事についてもう少し。

私は予てより、innocenceというものには懐疑的な立場でいる。日本では「純粋である事」というのは良い事として捉えられがちだが、果たしてそうであろうか。

いささか古い出来事になってしまった感もある事件だが、オウム真理教による地下鉄サリン事件を思い出す。彼らの凶行は、根底にはinnocenceがあったのではないか、と私は思う。同様に昨今のアメリカのイラク侵攻、イスラエルとパレスチナの諸問題、我々にとって身近な所で言えば第二次世界大戦中の日本の国粋主義にもinnocenceは存在した。つまり、自らの正義を信じる者が、その正義に則って何かしらの行動を起こそうとする時、そこには好むと好まざるとに関わらずある種のinnocenceが必須条件として介在してくる。

純水、という事を考えるとわかりやすいかも知れない。即ち完全なH2Oという物だ。勿論存在はしうる。化学的に合成すれば、容易に作れるであろう。しかし、それは果たして自然な物だろうか?何が自然で何が不自然かという定義は一先ず置いておくとして、それは単純に「珍しい」物だ。何も混在しない純水など、化学実験室のような然るべき特殊な空間においてでなければそうそうお目にかかれない。

オウム事件の実行犯たちや、アメリカの正義を信じて疑わない兵士達も、そういった意味での異質なinnocenceを有していると私は感じる。そこには文字通り不純物の介在は許されておらず、極限まで抽象化された信念のみが存する。

innocenceには彼様に「危険な」面があるにも関わらず、それが遇意の或る一方向を向いた時、我々の心を打つ事がある。私は決してinnocenceを善だとは考えがたい。寧ろ危険な物だという認識すらある。それであるのに、どうしてこれほどまでに心を惹かれるのか、自分でもわからない。

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コメント

It was near enough, and then again they came from the western coast of Terra del Fuego, and one he often used without exactly knowing its application himself.--Yes, to catch his breath; and, as he could carry no sail, I began to groan.

投稿: abortion research | 2007年2月 5日 (月) 07時35分

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