大した事ではないのですが
ここ最近、このブログもいささか惰性になって来ている、と自戒している。魂の込められた文章だけが衆目に晒される必要がある、と言ったのはニーチェだったかも知れない。うむ、その通りだ。
文章を書くという事に関して、ここの所本当に調子が悪い。湧いてくる感じがまるでない。
という事で、しばらく書きません。私が何かをどうしても他人に伝えたくなった時にまた書きます。
意外と明日か明後日ぐらいだったりして。それは格好悪いなあ。
ここ最近、このブログもいささか惰性になって来ている、と自戒している。魂の込められた文章だけが衆目に晒される必要がある、と言ったのはニーチェだったかも知れない。うむ、その通りだ。
文章を書くという事に関して、ここの所本当に調子が悪い。湧いてくる感じがまるでない。
という事で、しばらく書きません。私が何かをどうしても他人に伝えたくなった時にまた書きます。
意外と明日か明後日ぐらいだったりして。それは格好悪いなあ。
最近思う事。
もう一度「古典」と呼ばれる文学を一から読み直したい。何か百冊なら百冊のリストを最初に決めてしまって、で、それを片っ端から読んでいく。これまでに読んだ事がある作品もない作品も、とにかくもう一度読み直す。そして全ての作品に「現時点での感想」を書き記す。なかなか楽しそうだと思う。
仮に百冊だとしたら、どれぐらいかかるのだろう。二年ぐらいかな。今何かを思い切るとするならば、そういう事がしたい。
私はまだセルバンテスの「ドン・キホーテ」を読んだ事がない。メルヴィルの「白鯨」もエリオットの「荒地」もプルーストの「失われた時を求めて」も全て途中で放り出してしまった。
うん、名作を気合いを入れて、読みたい。
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すいませんね。スケジュール、決まってる分だけ、10月まであげてしまいます。数回前にもスケジュール載っけたんですけど。
全部来てくれた方には、記念品として東京タワーのペナントか浅草雷門のキーホルダーをプレゼントします。ちなみに、先の事はわかりませんし、ここからもいくつか追加・改訂があるかと思いますが、そこは許して下さい。
2006年7月
7月25日(火)高槻JKカフェ
tel 0726-71-1231
http://www6.ocn.ne.jp/~officejk/cafe/jkcafe.html
三ヶ月に一回ぐらいのペースで出させてもらっています、JKカフェ。黒田雅之氏と。
19:00~start music charge:カンパ制
7月26日(火)上賀茂MKボウリング
ジョニー大倉バンド
詳細未定
7月28日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
7月29日(土)神戸須磨
ジョニー大倉バンド
詳細未定
2006年8月
8月2日(水)三条春日通り e's style
tel 075-316-1111
http://www.cudetion.com/es-style/index.html
pf:福島剛
三条春日通のレストラン。この日はピアノソロ。
19:30~start music charge:カンパ制
8月5日(土)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
vo:岩井繭子 pf:福島剛
一ヶ月ぶり、ボーカルとデュオ。
21:00~start music charge:カンパ制
8月8日(火)北山 mojowest tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/
sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 ds:古賀俊輝 pf:福島剛
毎月第2火曜は何があろうとmojowestで、このメンバーでやってます。
20:00~start music charge:1500円with1drink
8月9日(水)三条春日通り e's style
tel 075-316-1111
http://www.cudetion.com/es-style/index.html
sax:黒田雅之 pf:福島剛
三条春日通のレストラン。
19:30~start music charge:カンパ制
8月11日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
8月12日(土)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
sax:黒田雅之 pf:福島剛
グリニッヂでこのデュオは久し振りです。営業色ゼロで。
20:00~start music charge:カンパ制
8月25日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
8月26日(土)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
pf:福島剛
気楽なピアノソロ。遊びに来てください。僕も遊んでおります。
21:00~start music charge:カンパ制
2006年9月
9月4日(月)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
vo:岩井繭子 pf:福島剛
繭子、初めてのグリニッヂ。
20:00~start music charge:カンパ制
9月8日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
9月12日(火)北山 mojowest tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/
sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 ds:古賀俊輝 pf:福島剛
毎月第2火曜は何があろうとmojowestで、このメンバーでやってます。
20:00~start music charge:1500円with1drink
9月17日(土)出町柳MAAM tel 075-771-3190
http://www.kyotozanmai.com/user/maam/maam/
vo:小場未明 gt:鳥居直介 b:岩山健 pf:福島剛
大学の先輩鳥居氏のバンドfrom東京です。ボーカル、ベースの方とは勿論初共演。
19:30~start music charge:1700円with1drink
9月22日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
9月23日(土)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
vo:須和龍一 sax:黒田雅之 pf:福島剛
ブルージイなものではなく、ブルースそのものをやります。男だらけで。
20:00~start music charge:カンパ制
2006年10月
10月10日(火)北山 mojowest tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/
sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 ds:古賀俊輝 pf:福島剛
毎月第2火曜は何があろうとmojowestで、このメンバーでやってます。それが仮に体育の日であっても。
20:00~start music charge:1500円with1drink
10月13日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
10月15日(日)岡崎 ZAC BARAN
tel 075-751-9748
http://www.secondhouse.co.jp/
ts:福代亮樹 b:鶴賀信高 pf:福島剛
普段は比較的クールな福代・鶴賀両名が「アホ」になる日です。
19:00~start music charge:カンパ制
10月20日(金)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
ds:田中久仁彦 b:鶴賀信高 pf:福島剛
やろうかと前から言っていた後輩の田中久仁彦くんのトリオ、やっと始動します。
20:00~start music charge:カンパ制
10月22日(日)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
ds:副島正一郎 b:椿原栄弘 pf:福島剛
ロック+ブルース+ジャズ=ニューオーリンズ(???)。御馴染みNEZOEです。
20:00~start music charge:カンパ制
10月27日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
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私がここに書くことの9割方は日記ではなく「雑感」であるな、と客観的に分析する。何か日常の事を書くのが照れくさくて、所謂「日記」を書くのを躊躇ってしまう。
けれどたまには良いんじゃないかと思って、昨日から今日の間に起こった出来事を以下に記す。エンターテイメントではなくなってしまうのだが、たまにはお許し願いたい。
昨日は木屋町menomossoでのピアノソロ。いつものようにリラックスしてピアノを弾いていたら、休憩中にお客さんのカップルに話しかけられた。話しかけて来たのは彼氏の方。そんなに恐縮して頂かなくても良いのに、というぐらい丁寧に。
「あの、彼女がサッチモが大好きなので、サッチモの曲をやって頂けませんか?」
やりますとも。そして私もサッチモが大好きですとも。
たっぷりとルイアームストロング特集をやったら、とても喜んでくれた。私が好きな音楽を提供して、それによって喜んで頂けるのは何にも代え難い喜びがある。ええ、精一杯やらせて頂きました。
そしてその後にやって来たお客さんが、今度は演奏を気に入ってくれて、「好きなだけ飲んでいいよ」と私に一言。嬉しいです。お金も嬉しいのだけれど、お酒もまた嬉しい。現金なものです。アブサンというお酒をたくさん頂いてしまいました。気の良いお客さんだったので、お酒をご一緒しても楽しく過ごせた。楽しい酒と楽しくない酒とあるもんね。
そしてほろ酔いになってしまった私は、いつもの悪い癖が出てしまった。
「もう一杯」である。
menomossoを深夜の三時過ぎに出て、すぐ近所の朝まで営業の飲み屋に向かってしまった。ああ、ダメだあ、俺ええ…と心中呟きながら。
その二軒目に行ってみると、4時近くなのに随分な盛況ぶり。カウンターに突っ伏して酔いつぶれている先客有り。私は隅でチビチビとハーパーソーダを飲っていたが酔いつぶれたその先客は私の更に隣奥、店の一番奥に「午前四時の風物詩」的に放置された。暴れる訳でなし。何も不愉快な気持ちを抱かずにのんびりと私はお酒を飲んでいた。
しばらくするとその酔いつぶれた先客は眠りから覚めたようで、元気に再び酒を飲み始めた。袖振り合うも多生の縁。お互い一人の客であったので、杯を交わした。
聞けばその先客、京都の某国立大学の薬学部の学生だという。それも博士課程だとか。高学歴も酒飲んじまえば一緒ですな、と言いながら笑い合って、とても楽しい酒であった。少なくとも私は。
家に帰ったのは朝9時。約10時間も飲み続けていたのか、なかなか私も若いではないか、と思ったが、今日の昼からのリハーサルは流石にしんどかった。けれど充実のリハーサル。明日のライブは岡崎のザックバランです。昔私がアルバイトしていて、あまりの私の使えなさにクビになってしまった何とも因縁深いお店です。是非皆さんいらして下さいね。
はい、日記終わり!今日は早めに寝ます。
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他人の不幸を
祈るようにだけは
なりたくないと
願ってきたが
(中島みゆき「怜子」)
そう、他人の不幸に安堵してしまうのは我々人間のどうしようもない醜い部分であるが、そこに鈍感になってしまってはいけない。つまりその自己嫌悪を忘れてしまっては、下衆なワイドショーや週刊誌と同じ視点に我々は堕す。
何が言いたかったかと言えば、私は「優越感」という感情がとても嫌いだという事。
今日の文章は全くきちんと纏まっていない。最近色々と調子が悪い。
大丈夫。時間が大部分を解決してくれる。
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はい。頑張ってスケジュール入れました。プロフィールの所からも見れますが、こちらにも。ライブに来て下さい。僕は、お客さんがゼロ、という夢をよく見るのです。それはそれは嫌な夢です。
ちなみに八月中盤、二週間ほどライブをしない時期がありますが、勿論、お出かけします。多分、東京で遊んできます。夜間の東京タワーに一人で登ってきたいです。オフクロと二人でデートというのもありだと思いますが。
2006年7月
7月20日(木)三条春日通り e's style
tel 075-316-1111
http://www.cudetion.com/es-style/index.html
sax:黒田雅之 pf:福島剛
三条春日通のレストラン。
19:30~start music charge:カンパ制
7月21日(金)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
ピアノ・ソロ
最近の心秘かな楽しみ、ピアノソロです。ニューオーリンズジャズとブルースを中心にお届けします。
21:00~start music charge:カンパ制
7月23日(日)岡崎 ZAC BARAN
tel 075-751-9748
http://www.secondhouse.co.jp/
ts:福代亮樹 b:鶴賀信高 pf:福島剛
寺の息子、福代くんと初共演。般若心経を三人で朗読します。(嘘です)
7月25日(火)高槻JKカフェ
tel 0726-71-1231
http://www6.ocn.ne.jp/~officejk/cafe/jkcafe.html
三ヶ月に一回ぐらいのペースで出させてもらっています、JKカフェ。黒田雅之氏と。
19:00~start music charge:カンパ制
7月26日(火)上賀茂MKボウリング
ジョニー大倉バンド
詳細未定
7月28日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
7月29日(土)神戸須磨
ジョニー大倉バンド
詳細未定
2006年8月
8月2日(水)三条春日通り e's style
tel 075-316-1111
http://www.cudetion.com/es-style/index.html
pf:福島剛
三条春日通のレストラン。この日はピアノソロ。
19:30~start music charge:カンパ制
8月5日(土)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
vo:岩井繭子 pf:福島剛
一ヶ月ぶり、ボーカルとデュオ。
21:00~start music charge:カンパ制
8月8日(火)北山 mojowest tel 075-706-8869
http://www.mojo-west.com/
sax:黒田雅之 b:鶴賀信高 ds:古賀俊輝 pf:福島剛
毎月第2火曜は何があろうとmojowestで、このメンバーでやってます。
20:00~start music charge:1500円with1drink
8月9日(水)三条春日通り e's style
tel 075-316-1111
http://www.cudetion.com/es-style/index.html
sax:黒田雅之 pf:福島剛
三条春日通のレストラン。
19:30~start music charge:カンパ制
8月11日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
8月12日(土)四条河原町GreenwichHouse
tel 075-212-5041
http://www.greenwich-house.com/
sax:黒田雅之 pf:福島剛
グリニッヂでこのデュオは久し振りです。営業色ゼロで。
20:00~start music charge:カンパ制
8月25日(金)祇園 pick up tel 075-525-0595
http://www.gion-pickup.com/
第二・四金曜日の深夜はジャムセッションやってます。
00:00~start music charge:2000円
8月26日(土)木屋町menomosso tel 075-211-8626
http://www.geocities.jp/bar_meno_mosso/
pf:福島剛
気楽なピアノソロ。遊びに来てください。僕も遊んでおります。
21:00~start music charge:カンパ制
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所謂「フェミニスト」と呼ばれる方々が嫌いだ。ビートたけしの番組に出ているジェンダー論者の方などが有名であるが、彼ら彼女らの主張を聞いていると、げんなりする。反論はする気にすらならない。一体何が言いたいのだろうといつも苦々しく見てしまう。語気を強めた派手な論調がテレビ受けするから、コンスタントに仕事はあるのだろうけれど。
私は無意識のレベルでは、きっと男尊女卑論者に違いない。良く言えば古風な人間、悪く言えば頭の固い人間なのだ。
そんな私でも「おいおいマジかよ」と思うような番組が深夜にやっていた。
内容は「アホカワクイーン決定戦」というようなもの。駆け出しの小娘に一般常識レベルのクイズを出し、珍回答をさせてそれを面白がるというようなものだ。「アホでカワイイ女の子」を決める番組のようだったが、何だコレは、と怒りに近いものすら覚えた。
違和感が拭えないまま、20分ほど見た。見たんかい。ひどいものであった。四国の各県の配置を聞いても誰一人答えられない。それ自体はやむを得ない。出演者達の珍回答は手放しには非難出来まい。「ワザと」やっている可能性も大いにあるからだ。つまりヤラセであるという可能性。テレビは全てヤラセだと聞く。ならば仕方あるまい。
しかし、問題はその企画である。
「アホ」な女の子は本当に「カワイイ」だろうか。
これは一概にどうとも言えない。「アホ」でも「カワイイ」女性は確かに存在するからだ。
しかし、その番組においては「無教養な女性=カワイイ」という図式が成り立たされていた。これは一体どういった了見であろうか。女性が無教養であれば、男性が女性を支配し易い、故に「無教養な女性=カワイイ」のであろうか。ついつい私もフェミニストのような言論をぶつ。知性と教養を身に付ける事は、可愛らしさを失うことと同義だと、その深夜番組は言わんばかりであった。
私は特に、自分が愚かでアホな人間であるという自覚が強いので、知的な人間に対する憧れが強い。時には知的ぶろうとして難しい言葉などをワザと使おうとしてしまう。弱い奴ほどすぐにケンカをふっかける、という理屈と同じだ。そして私は知的な女性の方が可愛いと思う。
ええー、むずかしーい、やだー、わかんなーい、こわーい。
グーでぶつぞ、貴様。
そう思う。
私が図書館の片隅でベケットを読んでいたら
「あら、何を読んでいるの?『モロイ』?私はこの間『マロウンは死ぬ』を読み終わったわ。ベケットは小説も良いわよね」
と話し掛けられたりする事を夢想する。
一昔前に「キレイなお姉さんは好きですか?」というキャッチコピーのCMがあったが、私は今日は「知的なお姉さんは好きですか?」と問いたい。
無論、私は、好きだ。
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様々な誤解を恐れずに言うが、「私はプロのミュージシャンである」。
「プロなんですか?」と問われてずっと躊躇をしていたが、最近は図々しくも開き直った。言ってしまえばそれでおしまいなのだ。虚空に放った言葉を再び呑み込む事は出来ない。勢いでもう一言だけ言おう。「私はプロフェッショナルのピアニストである」。もう知らない。エクスキューズの意図的な放棄だ。
自分がこうしてミュージシャンになった事に、私はたまに奇妙な違和感を抱く。そもそも音楽は私にとって、ずっと「二番セカンド音楽」というような位置付けであったからだ。生活の中で極めて重要なポジションを占めるものの、決して花形ではなかった。地味な職人気質、というのが私にとっての音楽の位置付けであった。
参考までに、私の若い頃の脳内ナインを以下に記そう。思い付きだ。
1番レフト女性
2番セカンド音楽
3番センター酒(類似品含む)
4番ファースト文学
5番サードインド
6番ショート柔道
7番ライト博打
8番キャッチャー怠惰な生活
9番ピッチャー睡眠
以上、といった所か。こうして見ると、今もこのナインの顔ぶれに大きな変動はない。代打の切り札で「食事」という選手が成長してきているものの、若手が伸びて来ないので(私が色々な事に興味を持つ方ではないので)、いつも固定メンバーで試合に臨んでいる訳だ。
そう、私の脳内ナインの中心選手、15年前の中日ドラゴンズの落合博満的な存在は、ずっと「文学」であったのだ(或いは今も、かも知れぬ)。御存知の方は御存知かも知れないが、私は恥ずかしながらずっと職業的物書き乃至小説家になりたかった。結構本気であったのだが、気付けば私はピアニストになっていた。人生はわからない。故に、毎日ピアノを弾いていて、楽しくはあるが、時折奇妙な感覚に襲われるのだ。不満とは全然違う。
最早作家になりたいとは思わないが、最近は文章を書く事への向上心が、大分自分の内側で目覚め始めている。誰かの文体の劣化コピーではない、自らの独自の文体を手に入れる事は出来やしまいか。そんな事をよく考える。文章が、うまく、なりたい。
今年の夏は、可能ならば山に行きたい。キャンプなぞをしたいな、とふと思ったが、これは十中八九しない事も私は知っている。中途半端に文章を纏めるのも、やはり技術不足のなせる業である。
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暑い。
祇園祭を直前にして、京都の気温は殺人的に上がって来ている。湿度も高いものだから、少し動いただけで汗が滲む。調子に乗って炎天下の下でサックスでも吹こうものならば、ウォーターフォールこと私、という具合だ。汗が引いた後は、背中にうっすら塩が吹く。塩田こと私だ。今日は勢い余って30分ばかりサックスなど吹いてしまったのだ。ロクに吹けやしないのだけど、ぷーっと音を出しているだけでなかなか楽しい。
さてさて暑くなってきた所で、明日は楽しみにしていた箕作元総(きさくもとふさ)さんと椿原栄弘(つばきはらひでひろ)さんとのライブ。二人とも漢字が難しいのできちんと名前を読むのが困難であるが、とても素晴らしいミュージシャンである。宜しければ皆様、是非お立ち寄り下さい。詳細は以下。
七月十五日(土)
出町柳MAAM(川端今出川下がる)
075-771-3190
晩の8時ぐらいからやっております。チャージは2000円1ドリンク付とリーズナブル。祇園祭の人混みに疲れてしまった人も是非。生きる事に疲れてしまった人も是非。元気が有り余ってる人も暇が有り余ってる人も是非。
真っ直ぐ行きます。愚直に真っ直ぐ。
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リリーフランキー著『東京タワー口オカンとボクと、時々、オトン』読了。良い本であった。
家族というのは、私達ほとんどの人間にとって、初めて出会う他者である。それはつまり、厳密に(或いは生物学的に)言えば、全ての人間にとって、初めて会う他者は母親である、という事だ。出産され、孤独な闇の世界から光の世界にやって来た我々は、無意識の内に母を見る。我々がつい先ほどまで内部的に抱え込まれていたものを、外部から見つめる。そして、ほとんどの場合ではそこで歓喜の産声を上げる。ありふれた人間の誕生の瞬間とはそういうものだ。
少し私の事を。
私は嘗て母親が嫌いであった。そこには様々な要因が考えられるが、とにかく私は母親の事を決して尊敬していなかったし、鬱陶しいと感じる事さえあった。二人でどこかへ出掛けるなど、まっぴらごめん蒙る、そう思っていたし、母親と二人でいる所を誰かに見られるのは恥ずかしい事だと思っていた。
それが今ではどうだろう。私は暇があればすぐに母親に電話をかける。
「ああ、オレ。何してた?オレ?オレは暇してた。」
みたいなノリで。挙げ句の果てには
「明日早いんだから。もう切るねっ!」
とオフクロの方から電話を切られてしまう。私はいささか寂しくなる。
私が実家のある東京の小岩に帰った折には、必ずオフクロと二人で酒を飲みに行く。昼間は、ショッピングなど大嫌いな私が、オフクロの買い物に付いて銀座に行ったりする。あまり認めたくなかったが、二十歳を越えてからの私は確実にマザコンだ。
これまで付き合った彼女には大体いつも「私よりお母さんの方が好きなんでしょ?」と聞かれていた。私はいつも「そうだ」と答えていた。私は正直な人間だから。「同じぐらい好きだよ」と答えた人は一人だけいた。彼女は私のオフクロとも仲良くしていて、私が彼女と別れた後も、彼女が出張などで東京に行く時には、私に内緒で二人で一緒に食事などに行っているらしいのだ。私としてはいささか複雑な心境であるが、それもまた良しであろうと今では思っている。その別れた彼女は、今度千葉に転勤になるという。オフクロにその事を伝えたら、早速「千葉に越してくるんだって?」と電話を入れていたそうだ。何をしてるんだ、とほほ、と私もうなだれたが、もはや仕方あるまい。(似たような描写が、本作の中でも見られた)
さて、そんなマザコンの私にとって、このリリーフランキーの『東京タワー』は特別な思い入れの元に読み進めざるを得ない作品であった。
作中の登場人物に自分の姿を重ね合わせる、という技は、我々「自意識過剰人間ズ」(略してJKN)には朝飯前であるが、私はこの『東京タワー』を読みながら、「あ、オレがいる」と何度思った事か。取り分け「ボク」である「マーくん」に私は感情移入した。せざるを得なかった。親元を離れて、東京で無目的にギャンブルに興じるマーくん。大学を留年するマーくん。「ちゃんとやっとるけん、心配せんでよかよ」とすぐにバレる嘘をつくマーくん。「オカン」にすぐに借金の無心をするマーくん。「オカン」が誰よりも大好きなマーくん。
この小説のファンはたくさんいるようだが、もうはっきり言ってしまうと、この小説は私のための小説なのだ。自意識過剰だからね、そこはちょいと譲れません。
故に、ラストに近付いていくに従って、私は心を乱さずに読めなかった。まだ読んでいない方もいると思うので、ネタバレになるような事は書かずにおこうと思うが、この小説の白眉は、特に後半部分の二つ、「ママンキーのひとりごと」と「マーくんのオカンへのありがとう」であると私は思う。どちらも決して長くはない、口語体の言葉で語られ、そしてこの二つは共に対応している。
ミクシイというサイトの日記にこの本の事を簡単に(とても簡単に)書いたとき、女性の友人は上記の「ママンキーのひとりごと」が心に残った、とレスポンスをくれた。とある男性は、「男はみなマザコンかもしれない」と言った。こういった家族の物語は、男女によって受け止め方が違って当然だろう。
私はその男性と同様に、多かれ少なかれ男は皆マザコンだ、と思っている。
その女性が「ママンキーのひとりごと」に心を打たれたのは、いずれ自分が母親になり子供を持つからかも知れない。
受け止め方が違っても、それぞれに考えている事は同じである。それは何か、それは愛である。
愛、などと大上段に構えて言ってしまうと嘘臭くなるが、家族の愛は意外と身近でわかりやすく、そしてその割には本物である。そして家族の愛は、得てして「無償に与える愛」である。私はそれを本書により確認したし、上に引用に出させて頂いた二人もまた「愛について」考えられた事であろう。ちなみに、男性の方は、私が困った時にいつも愚痴を聞いて頂く兄貴のような方だ。
長くなってきたので最後にしたい。『東京タワー』、本書は愛の小説である。愛の小説などと言うと、チープで嘘臭い印象になるが、そこにはやるせないリアルな愛情が溢れている。
この小説に対する私なりの賛辞を考えていたが、どれもありきたりでピンと来なかったのだが、今ピンとくる言葉が頭に浮かんだ。それを本日最後の言葉としたい。
この小説の良さがわからない人とは、私は仲良く出来る気がしない。
『東京タワー』を貸してくれたMさん、ありがとうございました。今度返しますが、僕は僕で自分で一冊買う事にします。最悪、万引きします。
スポーツの事を少し。
深夜にテレビを見ていたら特集を組まれていたスポーツ選手がいた。
名城信男、24歳のプロボクサーだ。
ボクシングというスポーツはとても好きだった。「好きだった」というのは、ここ最近、特にここ一年くらいのプロボクシング会は、私にとっては魅力的なものから不愉快なものへと変化していたのだ。理由は明確には書かない。誰が悪いのかは私にはわからないから。戦っている三兄弟は、ことによるとさほど悪くはないのかもしれない。しかし、彼らを取り巻く種々の環境は、大事な事をことごとく忘れている。少なくとも、彼らの父親は「昆虫よりバカ」だと思う。
いやいや、そんな事はどうでもいいや。別に悪口を書きたかった訳ではない。
名城信男、彼の事である。近々世界戦に臨むのだという。勝てば、あの辰吉丈一郎に並ぶ最年少記録での世界チャンピオンになる。
これだけ書けば、何ら変哲のない、ボクシングの極めて順調なサクセスストーリーだが、彼にはどうしても勝たなくてはいけない理由があるという。私が彼に強烈に興味を惹かれたのもそこだ。
彼は、リング上で人を殺めた。
ここまで極端な書き方は、勿論誤解も語弊も覚悟の上だ。事実に比較的忠実にいくならば、こういう事だ。名城は、日本チャンピオンへの挑戦者としてリングに上がった時、激戦の末に当時のチャンピオンを破った。そしてその敗れたチャンピオンは、試合の数日後にそのダメージが原因でこの世を去った。つまり、名城が殺したのだ。
事故、と簡単に割り切れるのはあくまで我々「ブラウン管のこちら側」の人間だけだ。名城は「殺した」という表現さえ使わなかったものの、自分は加害者だという意識は拭いきれなかったようだ。それは、日本チャンピオン防衛戦に勝利した後の彼の表情に見てとれた。安堵、などと生温いものではない。そして解放のような赦しもなく、ただただ試合に勝った事に彼は泣いていた、子供のように。
亡くなったチャンピオンの遺族達は、名城を許せないかも知れない。名城もまたその事実を決して忘れる事はないだろう。それでも彼は再びリングに上がる。ただひたすらに勝つために。
どうしても芸能ニュースの延長のような形で見てしまう私の品性の下劣さが自分でも情けないが、はっきり言ってTBSがバックに付いて不必要に盛り上がっている「ナントカ祭り」とは比べものにならないほどに、純粋な「勝負」がそこにはあるだろう。亡くなったチャンピオンの分まで頑張れ、とは思わない。ただ、名城、頑張れ、それだけを思う。試合の日が私も今からとても楽しみなのである。
ここの所、折に触れて「インド行きたいなあ」と独白し、また多言もしているが、冷静に自らを省みて、明らかに今私は「どこか行きたい病」にかかっている。これにかかると、少なくとも1ヶ月は治らない。京都での生活はそれなりに充実している。貧乏だけれど、私にはここでするべき事がいくつかあるのだ。だのになぜ。
ブログを自慰的に使う事を、なるべく自らに戒めているのであるが、本日は露悪趣味に自慰をしよう。
どこに行きたいかと問われればまずは何はなくともインドのバラナシ。毎朝毎朝ガンジス川で泳ぎたい。泳ぎ疲れたら川岸で暖かいチャイを飲む。これがまた実に美味い。路地裏の牛、洗濯をする母、交錯し、溶け合う生と死、聖と俗。
そしてイスラム諸国にも行きたい。晴れ渡る空の青とモスクの白のコントラスト。屈強な男たち。顔を隠した美しい女たち。1日数度の西への祈り。
また最近、特に興味を惹かれているのはアフリカだ。キリマンジャロに登りたい。ナイル川に身を浸したい。大地の鼓動と剥き出しの人間の本能(これは時として容易に危険な要素にもなりうるだろうが)に触れたい。ナイロビの夜の裏町を散歩したい。
アイルランドにも行きたい。イタリアにも行きたい。ロシアにもペルーにもグアテマラにも行きたい。
が、金がない。時間もない。
故にブレーキがかかる。
金の問題の方が深刻だな。金があれば時間はきっと無理やり作るだろう。今、私は日々の演奏のチップ程度の小銭で生活しているので、笑えるほどに貧乏である。これはこれで楽しいのだけれど。
誰かが私の演奏を聞いて
「彼はきっとインドに行ったら更に良いピアノ奏者になるよ」
と言って私にポンと旅費を100万円ほどくれないかと夢想する。宝くじで一等を当てるのとどっちが難しいだろうか。
今日も今から演奏だ。旅費の100万円を貰えるように頑張ろう。
サッカーに続いて野球の事を。オッサンだな、私は。
何日か前にヤクルト古田敦也の「代打オレ」について書いた。言いながら笑わないんだろうか、と。
数日後のスポーツニュースを見たら、自分を指差しながら、明らかに古田の顔がニヤけている!
「代打オレ。えへへ」みたいな感じで。
ヒットを打ってまたニヤけていた。
「監督(オレ)の期待に応えた代打、オレ」
みたいな感じで。
もうね、最近は野球は間違いなくヤクルト戦が面白い。
阪神の藤川球児を広島カープにほしいがね。
世界のブログ人口は今や相当な数になっているらしい。わからなくもない。比較的簡単だもの。コンピューターに対する苦手意識を持つ人の中で、ブログによってその敷居が低くなったと感じている人は少なくないのではないか。私もその一人だ。
そして今日、多分かなりの数の人が同じ話題についてブログ上に文章を書くだろう。その話題はきっとサッカーのW杯。決して私の家の近所のスーパー「ナナ」の特売情報ではないだろう。W杯の全日程が終了したのだ。
私は熱心なサッカーファンという訳ではないが、比較的よくサッカーを見る方で、W杯もそれなりに楽しんで見ていたので、素人的なサッカー観戦記を今日は一本ぶつ。本物のサッカーファンの方々と、全くサッカーに興味のない方々には申し訳ない。
まず、地区別の予選から。今回の予選では私の応援していた2チーム、アイルランドとナイジェリアが姿を消した事で、大分テンションは下がっていた。何だよそれ、と思っていたのだが、代わりに初出場国ウクライナの存在が目を引いた。日本チームはあまり魅力的ではなかったので、他に応援出来るチームを探していたのだ。
そしてグループリーグ予選。ここで感じたのは、ブラジル強し、アルゼンチン強し、であった。やっぱり南米かな。私はそう感じた。
ところが、決勝トーナメントに入ると、あれよあれよと敗退していく非ヨーロッパ勢。結局御存知のようにベスト4に残ったのは全て欧州の4チーム。プチ番狂わせだった訳だ。
今日の未明に行われたフランスとイタリアの決勝戦は、私もテレビで観戦していたが、良い試合だった。開始早々に明らかに怪しいファウル(多分ファウルではない)でフランスがPKで先制。おお後味悪い、と思いながら見ていたら、試合終了直前にフランスの英雄ジネディーヌジダンが、相手選手の一人の胸部にヘッドバット!明らかに故意。きっと何か腹の立つ事を言われたのだろう。一番の大舞台で感情的になって退場になってしまうジダンが素敵であった。試合は結局PK戦をイタリアが制して優勝。おめでとさん。
今回のW杯で私が気になったチームは、フランスとアメリカ。共通するキーワードは「移民」である。
フランスは、一見して「ここはアフリカのチームか?」と思うほどに黒人だらけ。逆にアメリカは中南米系の顔をした連中ばかり。うーん、両国の闇の部分が見え隠れするねえ。
まあ、何はともあれW杯は面白かったですよ。中田に「自分探しの旅って…お前は中学二年生か!」とツッコミたくなりましたがね。
ハーイ皆さんこんにちは。皆さんは「あぁ、インド行きてぇなぁ…」という独り言を一週間にどれくらいの回数言うのでしょうか。最近一日に三回は確実にこの独り言を言っている私です。インド行きてぇなぁ…
今日は昼間に二十歳ぐらいの野郎共とのバンドのリハーサル。サックスとベースとピアノが私という三人編成なのだが、このサックスとベースが二十歳ぐらいの野郎共なのだ。別にそれほど年も離れていないが、彼らのシュッと締まったお腹のラインが羨ましかった。よし、腹筋しよう。
音楽的には、私の趣味の押し付けみたいになるのは嫌だったのだが、結果的にシンプルなニューオーリンズジャズのようなサウンドを作り上げていこう、と普段の私の音楽性とあまり変わらない形になってしまった。一意専心だな。彼らのサウンドも随分と心地良く響いてきていた。なかなかに良いライブが出来そうな予感がある。
リハーサルが終わった三時から少し暇になったので、料理をする事にした。近所のスーパーまでの道すがら、七夕の名残と見える笹の葉がポツポツと目についた。覗き見的な好奇心から、どんな願い事が書いてあるのか見てみた。相変わらず私は悪趣味である。
「家族がみな健康でありますように」
「今年、志望校に合格できますように」
「友達と仲良く出来ますように」
「ニンテンドーゲームキューブ」
最後のはついつい笑ってしまった。即物的というレベルではない。とても汚い字で殴り書くように書いてあった事で、その笑いの要因は増した事を、こういったインターネットの文字では伝えきれないのが残念だが、ただただ素晴らしいギャグセンスだ。
それを書いたガキに「お前、そりゃあ世界平和やら一家安泰やらなんかよりゲームキューブが大事に決まってるよな」と誉めてあげたい衝動に駆られた。
ゆっくりと街中を歩くのはとても良い。見えないものが見える、と初めは思っていたのだが、そうではない。私は随分と見落としていたのだ。そんなことを考えながら、私はスーパーでカレー用の材料を買ったのだった。
北朝鮮のミサイルの事。
金正日が遂に凶行に、みたいな報道が目立つけれど、結局アメリカが悪いんじゃねえの、なんて私は思ってしまう。もう少しまともに北朝鮮と話し合う機会はあったんじゃなかったのか?あんなに切羽詰まった国に対してアメリカが行ったような上からの目線での外交は、寧ろ意図的にミサイルを打たせるための外交だったんじゃないのか、と思ってしまう。アメリカという国は、何様なんだろうか?
日本や中国の経済制裁を受けて、北朝鮮はたまらねえだろうな。もう国際世論なんて完全に無視した、神風特攻隊みたいな感じになるんじゃないか?北朝鮮という国家が、死に場所を見つけるための戦争、そんなのが起きなければ良いけど。
計算通り、とほくそ笑んでいる大将がいるだろ?にやけてんじゃねえぞ、大統領さんよ。
七夕、である。
牽牛星と織女星とが、天の川を隔てて年に一度だけ相会するというこの伝説が、自分でも意外な事に好きだ。
どうやら起源は中国の伝説らしい。日本の万葉集にも「たなばたつめ」という機を織る女の存在があるが、それらが融合して近代の七夕の形になったのかも知れない。よく知らないのだ、細かい所までは。
十代の頃、私の淡くイタい恋の思い出だが、ほんのりと好きな女の子がいた。所謂片思いというヤツだ。便宜上「A」としておこう。彼女(A)は私には興味はなかったようだが、私はAに興味があったので、彼女に会うことを度々欲した。でも、私は何となくAが私に無関心な事も知っていたので、「ねえ、遊びに行こうよ」と言う事が出来なかった。時間だけが流れ、私とAはお互いに随分と離れた場所で生活する事になった。私が京都に住むようになったのだ。それでも不思議な事に、私は折に触れて彼女に会いたいなと思うことがあった。
勇気を出して、というよりも何かのモノの弾みで、ある日私はAを遊びに誘った。いいよ、と言われ、嬉しくなった事は何となく覚えている。隅田川を二人で散歩して、とても楽しかった。何を話したかまでは忘れてしまったが。
私はその時に再確認したが、Aはやはり私の事にはさして興味はないのだな、と改めて実感した。それははっきりと覚えている。こういうのって頑張ればどうなるとかいう問題じゃねえよな。私の中では、Aと恋仲になる事に対しての絶対的な諦観があったが、私はその後数年間、何故かAに対する片思いの感情を抱き続けた。そして、私は一年に一度、Aと食事をしたり遊びに行ったり、という事を続けた。
その後は勿論疎遠になった。私にも本当に好きな恋人が出来てしまったりして、Aに対する憧れにも似た好意や興味が薄れていったのだ。
私はAときちんとした恋愛をした訳ではない。未成熟な、十代の恋愛を引きずったままの何か淡くも恥ずかしいそのAとの事を思い出す時、私は七夕みたいだ、と思う。無論、織姫と彦星の伝説のように美しくもなく、単に滑稽なだけなのだが、一年に一度の逢瀬に、私はその太古の中国の伝説を重ねていた。イタいなあ…
Aはその後、風の噂で結婚したと聞いたが、その真偽の程も知る由もない。ごくまれに彼女の事を思い出すが、元気でいればいいな、と思う。
今日の日記はかなりイタいぞ、こりゃ。
本日の食事は、納豆ご飯と具なし味噌汁。なるべくならば「貧乏している自分」に酔わないようにしようと心がけているのだが、ここまで質素だと、「おお、貧乏してるなあ」とついつい思ってしまう。
これはいかんなあ、と自戒する。例えば味噌汁にワカメを少し入れただけで気分は変わる。冷蔵庫にあった卵で目玉焼きの一つでも作れば、それだけで一品増える。要するに私は努力を惜しんで自己憐憫という隙間に安住しているに過ぎない。
自己憐憫は甘美な泉だ。すぐにそこに沈殿し、抜け出したくなくなってしまう。
私は抗うぞ。私は私を憐れんでなどいてなるものか。被害者の顔をするのは簡単なのだ。いつでも他人の同情ばかりを求める下品な連中諸君、この文章を見ているかな、私は決して君たちのようにはなるまいと思っている。そうだ、必死で抗うのだ。明日の味噌汁には、ワカメばかりでなく豆腐まで入っているかも知れぬ。或いは漬け物ぐらい、食卓に加わっているかも知れぬ。そうだ、憐れんでなどいてなるものか。
と、若干攻撃的な私でした。実は禁煙生活三日目です。少しだけイライラ来ているのは、無関係ではないかも知れません。
ついにやってくれた。ヤクルトスワローズの監督古田敦也。
「代々、オレ」
凡退はしたけど、今日の対戦相手は我らが広島カープだったけど(しかも負けたけど)、でも、漫画じみていてとても良い。
「代打、オレ」
古田監督は言いながら笑わなかったのだろうか、それが疑問だ。
先週に書きかけていた映画の感想を書き直してみようと意気込んでいる。今回はきちんと最後まで書けるのだろうか。
見た映画は、『アマンドラ!希望の歌』という映画。南アフリカ共和国の人種隔離政策‘アパルトヘイト’にまつわる映画であった。
まず私がアパルトヘイトについて抱いていた誤認識を一つ。私はアパルトヘイトと言えば白人と黒人を住居地域、労働区域、経済区域の様々な面において分離し、そして白人を上部構造とするヒエラルキーを形成するシステムのような物だと思っていた。確かにこの私の認識は大筋では間違っていないが、厳密にはアパルトヘイトは、
“白人”、“カラード”、“インド人”、“黒人”と人種を4種類に分け、異人種間の結婚、恋愛を禁止したほか、レストラン、電車など公共施設の使用を“白人”と“白人以外”に分離するなどの制限を化したもの (http://www.movienet.co.jp/movie/opus01/amandora/index.html より引用)
であった。上にURLを記したホームページには、その内容がわかりやすく簡潔にまとまっていたので、その中から更に抜粋したい。
その中でももっとも大きな施策は、国の中に“黒人”専用の新たな地域(ホームランド、タウンシップなどと呼ばれる)を創設し、そこに黒人を囲い込むということであった。その目的は差別する側からは表面上は“民族の分離発展のため”と語られたが、実際は人口で圧倒的な多数を占める“黒人”を安価な労働力とすること、無力化することにあった。1948年に制定されたこの法律は様々な制約を加えながら、1994年(全人種参加の選挙が実施)まで40年以上にわたり続いていくことになる。その間も南アフリカ国内ではソウェト蜂起など様々な反アパルトヘイトの暴動や地下での抵抗運動、国外でも大きな反対運動が続いていく。その際に、U2などによる訴え、ピーター・ガブリエルの「ビコ」、スペシャルAKAの「フリー・ネルソン・マンデラ」など数多くの歌が大きな役割を果たしたことは確かである。 (同上より引用)
こうした世界でも類を見ないほどに強烈な人種隔離政策であったが、この政策が制度として完全に撤廃されたのは1994年。1990年に解放されたネルソン・マンデラ氏が大統領に就任したことによる。この撤廃への経緯もまた、世界では類を見ない、極めて稀有な革命によってなされている。
「南アフリカの革命は唯一音楽で実現した革命だ。他に類を見ない」(アブドゥラー・イブラヒム/ジャズ・ピアニスト)
これは決して誇張でなければ、比喩的な意味でもない。南アフリカ共和国で起こったその革命は、本当に音楽によって達成された革命であったのだ。理想的な御伽噺のような話であるばかりではない。現実問題として、貧困層であった黒人たちには、武器を持つ経済力さえなかったのだ。期せずして、その貧困がこのような美しい革命の一因を担った。
妊娠中に警察に逮捕された運動家のタンディ・モディセはこう語る。
「私は警察本部に拘留された。尋問され拷問を受け、胸をつかまれ裸にされた。監房には監視カメラ。私の動きを全て監視する為よ。お腹を殴られた。尋問の最中に破水したら、監房に返され、そのままほったらかし。殺されるって思った。それで決心したの。自殺しようと。監房のトイレのそばへ行って考えた。頑張ればここで溺死出来るかもってね。でも、便器に顔を突っ込む瞬間、子供がお腹を蹴ったの。お腹を蹴られて、私の考えは変わった。“殺したいなら殺せ”。“自殺して連中に手を貸す必要はない”と。彼らは唄が嫌いだから私は歌った。まともに闘ったら勝てない。手当たり次第に歌ってやったわ。何でもね。その夜の九時頃、娘が産まれたわ」(タンディ・モディセ)
彼らの武器は、一貫して歌うことであり踊ることであった。彼らが銃や戦車などの武器を持たないことに、或いは支配層の連中は安堵していたのかも知れないが、それが結果として革命の成功をもたらす事となったのだ。
ここからは私の私見だ。読みたくない人は飛ばして読んで頂きたい。
私は音楽が「意味」を持つことにいささかの疑問を感じる。「意味」を持ってしまった音楽は、「純然たる行為」としての側面を損なうからだ。そしてそうなっていった時に、音楽が持つ「生活の匂い」は薄れ、押し付けがましいイデオロギーだけが私たちの前に提示される事もある。私はそんな音楽を目の前にすると、しばしばうんざりするのだ。
音楽は生活を営む為の「手段」であり、或いは生活から派生した「行為」の一つに過ぎない、そうであれば良い、と私は考えている。つまり、「生活」から地続きになっているものであれば良いな、と。ブルーズが歌われだした背景には、貧困と重労働があった。そして、それを「みっともない歌」にして歌ってしまおうという、原始ブルーズマン達のユーモアがそこにあったに違いない。ブルーズが単に悲しい歌なのだったら、ここまで私の心を打っただろうか、これほどまでではきっとなかったろう、と思う。それはいささか滑稽であり、そしてみっともなくもあり、けれど突き抜けるような明るさもそこには存在し、そして美しく悲しかったからだ、と私は思う。ブルーズは生活の歌だ。だからこそ私はブルーズに魅かれてやまない。
ジャズもまた同様である。あまりに複雑化したジャズが、私は決して好きではない。学術的・芸術的な一面ばかりがそこでは強調され、生活の声が聞こえてこないようなジャズを聴くと、怒りこそ込み上げないものの、あくびが込み上げる。一見して複雑な音楽を奏でていたと思われがちなセロニアス・モンクの音楽からは、きちんと彼の「声」が聴こえてくる。彼の独特のユーモアには彼の生身の声が溢れており、彼の生活が溢れている。ルイ・アームストロングにとって、「生きること」と「歌うこと」は同義であったに違いない。生き生きとした艶やかなトランペットの音色にも、ユーモアと生活臭と、そしてやり切れない悲しさと底抜けの明るさが溢れている。
南アフリカの革命で歌われた一連の音楽は、「革命に利用された音楽」だったのだろうか。私はそうは思わない。イデオロギーの為に歌われた音楽が果たして人の心を打つのか、私は打たないような気がする。それは「祈り」だったのではないか、と私は思うのだ。純然たる行為としての「祈り」、それが自然発生的に表層化されたのが彼らの歌う音楽だったのではないか、と。音楽に意味があったのではない、まず初めに音楽があったのだ。
絞首台に昇ってまで歌を歌い続ける黒人に、白人は恐怖さえ覚えた。そうなのだ。それは決して「意味のある音楽」ではなかったから。絞首台の上の彼は、音楽と共に生まれ、音楽と共に死んでいったのだ。それは彼の全てだったのだから。
この映画、『アマンドラ!希望の歌』で数々の貴重なコメントを残してくれたピアニスト、アブドゥラー・イブラヒム氏が今年の秋に日本にやって来る。彼のピアノもまた、純然たる「祈り」を具現化する素晴らしいピアノだ。私も近くで見れる事を今から非常に楽しみにしている。
この映画、とにかく興味深い映画でした。音楽に興味が無い人が見ても面白いと思います。もし何かの機会がありましたら、是非一度ご覧になることをオススメします。
やった。最後まで書き上がった。
財布の中を見たら千円札が数枚あって、その中に一枚だけ旧デザインの千円札があった。夏目漱石のやつ。
五千円札は樋口一葉になって良かったと思うのだけれど、千円札の漱石から変えてほしくなかった。漱石好きなのに…
ちょっと時間が出来たら「それから」あたりを読み直したい。
仮に私がお札の人物を選べるとしたら、森久美子とテリー伊藤は外せないかな、とふと思った。
昨日、少し触れたinnocenceという事についてもう少し。
私は予てより、innocenceというものには懐疑的な立場でいる。日本では「純粋である事」というのは良い事として捉えられがちだが、果たしてそうであろうか。
いささか古い出来事になってしまった感もある事件だが、オウム真理教による地下鉄サリン事件を思い出す。彼らの凶行は、根底にはinnocenceがあったのではないか、と私は思う。同様に昨今のアメリカのイラク侵攻、イスラエルとパレスチナの諸問題、我々にとって身近な所で言えば第二次世界大戦中の日本の国粋主義にもinnocenceは存在した。つまり、自らの正義を信じる者が、その正義に則って何かしらの行動を起こそうとする時、そこには好むと好まざるとに関わらずある種のinnocenceが必須条件として介在してくる。
純水、という事を考えるとわかりやすいかも知れない。即ち完全なH2Oという物だ。勿論存在はしうる。化学的に合成すれば、容易に作れるであろう。しかし、それは果たして自然な物だろうか?何が自然で何が不自然かという定義は一先ず置いておくとして、それは単純に「珍しい」物だ。何も混在しない純水など、化学実験室のような然るべき特殊な空間においてでなければそうそうお目にかかれない。
オウム事件の実行犯たちや、アメリカの正義を信じて疑わない兵士達も、そういった意味での異質なinnocenceを有していると私は感じる。そこには文字通り不純物の介在は許されておらず、極限まで抽象化された信念のみが存する。
innocenceには彼様に「危険な」面があるにも関わらず、それが遇意の或る一方向を向いた時、我々の心を打つ事がある。私は決してinnocenceを善だとは考えがたい。寧ろ危険な物だという認識すらある。それであるのに、どうしてこれほどまでに心を惹かれるのか、自分でもわからない。
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