偉大なる狂気(長文注意)
私は嘗て甘いものがあまり好きではなかった。酒飲みだから、というのが一番わかりやすい理由かも知れない。ツマミは酒盗か梅干の一つもあれば充分、無ければ塩でも舐めながら、という感じであったのだが、ここの所甘いものがあれば、それをツマミにする事も増えてきた。ウィスキーには意外とチョコレートが合う、という事に気付いたのも極々最近だ。味覚の変化、或いは嗜好の変化なのだろうか、と考える。人間の嗜好は時と共に変化を強いられる事も有り得るのだ。
同様に、嘗て決して好きな作品ではなかったのに、最近読み返してみたら強く心を惹かれた小説がある。『The Great Gatzby』、アメリカの小説家フランシス・スコット・フィッツジェラルドの代表作であり、アメリカ文学史に燦然と輝く不朽の名作の一つだ。今日はこの作品について少し。
17歳か18歳ぐらいの頃、私が初めてこの作品を読んだ時には、何がここまで高い評価を得る要因となっているのかが理解し難かった。つまり端的に言ってしまえば私は「面白くない」と感じたのだ。読後には胸に何かモヤモヤとしたものが残り、そして私は主人公のジェイ・ギャッツビーにも語り手のニック・キャラウェイにも、或いは作中のどの人物にも感情移入は出来なかった。名作と言われている小説だし取り敢えず読んでおこう、という奇妙な使命感みたいなもの(最近こういった使命感も薄れてきている。嫌だなあ)に突き動かされて読んでいたに過ぎない。読書の楽しみをそこで満喫できていたのか、と言われれば、そこには疑問符が付く。『怒りの葡萄』や『ライ麦畑でつかまえて』といった他のアメリカ文学の代表作は夢中になって読んでいただけに、非常に期待を裏切られた気持ちになった。本当に「面白くない」と私は思っていたのだ。old sports、「親友」だと?くそったれが。そんな気持ちでつい最近までいた。
つい最近読み返した『The Great Gatzby』は、嘗て読んだその小説と一言一句違わないにも関わらず、私のこれまでの認識を一変させた。私はいつの間にか、本当に主人公のジェイ・ギャッツビーの事を「偉大」だと思うに至っていたのだ。偉大なるギャッツビー。なるほど、そういう事か、と。
読んだ事の無い方の為に、大まかなあらすじだけ紹介しておく。興味を持った方がいれば、是非一読をお勧めする。
ジェイ・ギャツビー氏は謎の男であった。ニューヨーク郊外、ロング・アイランドの突端に豪奢な邸宅を持ち、連日のように大勢の有名人を集めて大盤振る舞いのパーティに明け暮れているのだから、大金持ちであるということはすぐに分かる。しかしその客ですら、一人としてその正確な素性を知っている者はいないのである。
以降ネタバレがあるので、読みたくない人は読み飛ばして下さい。
入江の向こうのイースト・エッグには、ギャツビーがかつて愛し、今もなお愛しているデイジーが、彼女の夫のトムと住む邸宅があった。ギャツビーは5年前にデイジーと知り合い、互いに愛し合っていたが、陸軍中尉だったギャツビーがフランスから復員したとき、彼女は金持ちのトムと結婚していた。デイジーをあきらめられなかったギャツビーは、刻苦して富を築き、デイジーの邸宅が見える対岸に屋敷を建て、派手なパーティーを開き、彼女に再会できる機会を待っていたのだった。ギャツビーは隣に住むデイジーの遠縁にあたる青年ニックに仲介を頼み、5年ぶりで二人は再会した。
ギャツビーは、富を得て対等の立場でデイジーと再会を果たすという夢が叶(かな)い、二人の間にはかつての愛がよみがえるかにみえたが、彼が毎夜、入り江越しに眺めたデイジーの邸の桟橋に点(とも)る緑の灯のように、その愛は儚(はかな)く、脆(もろ)いものだった。(http://www1.odn.ne.jp/~cci32280/pbFitzgerald.htmより引用)
最終的な結末までは書かないが、つまりこんなストーリーなのだ。デイズィとの再会のみを祈って、世界の裏道を行き、財を成し、それを破滅的に散財させていく。そんな悲劇のストーリーだ。敢えて伏せた結末も悲劇的であるし、またとり方によれば十二分に滑稽ですらある。「アメリカの夢と挫折」といった解釈での読み方もスタンダードな読み方の一つであるが、私はやはり「一人の男の狂気染みたinnocence(無垢)」という所からこの作品を再び読んでしまう。そしてそうやって読んでいった際に私が一つ思い出した別の作品がある。
それは坂口安吾の『桜の森の満開の下』だ。ここにも純粋で狂気染みて美しくて醜い、そして何とも悲しい恋の形が描かれている。
『桜の森の満開の下』も『The Great Gatzby』も、共通するのは「狂気」であり「無垢」であり「破滅」であり、そしてそれらが描かれ出す際の「美しさ」である、と私は考える。不毛な物語にこそ美しさが必要だ。私はギャッツビーを軽蔑する。『桜の森』の山男も軽蔑する。そして軽蔑するからこそ、彼らの事を偉大だと感じる。彼らが体現したのは、紛れも無い「孤独」の一形態であり、そして人間のみが抱く愚かで苛烈な感情であったのだ。
That kills me. 完全にやられてしまった。偉大なるギャッツビー。
私は今日久々にこの小説を一日かけて読了したことにより、随分と興奮し、そしてその興奮冷めやらぬままにその感想をこのブログにこうして綴っている。嘗て私が駄作だと感じ、一笑に付したその作品は、数年の時を経て私をノックアウトした。今の私には、ギャッツビーの気持ちが痛いほどによく「わかる」。
久々に本腰入れて、ブックレビューを書いてみました。そこそこの長文になりましたが、最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございます。そしてお疲れ様でした。
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