屈折した人間のつく嘘
自分を正当化する根拠も理由もなく、言い逃れのないぐらいに自分が「悪い」立場に置かれた時の人間の屈折というものに、ここ数年非常に興味がある。
具体的に何かと言えば、それは南北戦争の南軍、そして第二次世界大戦後の日本と言えばわかり易いだろうか。つまり「有無を言わさずに価値観の大幅な転換を強いられた時の人間」とでも言おうか。今日は、その南北戦争の事について少し。戦後の日本も似たような状況ではあっただろうが、細部においては状況も違うため、それについてはまた違う機会に。
ものすごく大雑把に、ざっくばらんに言ってしまえば、南北戦争は奴隷解放を求めたアメリカ北部と奴隷制度維持を求めたアメリカ南部との戦争だ。多くの死者を出した、アメリカ史上最も凄惨な内戦であったと言っていい。戦争勃発の原因、この事実だけを見ても「理」は北部にある。戦争が起こったのは1861年から1865年の間であるが、その間にもエイブラハム・リンカーンの演説などにより、ますます北部はその「正当性」を増していった。結果は周知の通り、北軍の勝利で幕を閉じる。「制度としての奴隷制」はここで一度否定されるわけだ。(勿論、実情としてはこの後も長きに渡り奴隷制はその遺恨を残す事となる)
さて、この時に南軍の兵士として戦った多くの人たちは、戦後どういった意識の転換をはかったのだろうか、私が興味をひかれるのはそこなのだ。
「自分たちは間違っていた。そしてその間違った真理の為に愚かな戦争を起こしてしまった」
ここまで素直に実情(?←ちょっとおかしな言葉かな)を認められた人間というのは、実は全体の数パーセントにも満たなかったのではないか、と私は思うのだ。それ以外の多くの人間たちは、「自分たちは実は正しかったのだ」という虚像を作り上げたり、或いは極端な話、自らに幾ばくかの正当性を持たせるために嘘の話をでっち上げたり、そういう事もあったのではないだろうかと。
例えば、ウィリアム・フォークナーの作品群にはそういった「屈折した人間達」が驚くほど鮮やかに描かれている。私はそうした「屈折した人間達」にとても心をひかれる。数日前にサリンジャーの事を書いたが、『ライ麦畑』の中に主人公ホールデンが、「人生はゲームだ」と諭す教師に向かって「何が人生はゲームだ、だ。いつも勝てる側の強いチームにいる人間だったら人生はゲームでいいだろうけど、いつも負ける側の弱いチームにいるものからしたら、そんなことあるもんか。人生はゲームなんかじゃない」と心中毒づくシーンがある。これも全く同じ事で、人間というのは悲しいかな、何か拠り所のようなものを必要とする時が多々あるのだ。「勝者」という称号は最も甘美な拠り所になり得るだろうし、「正当性」というのも同様に甘い香りを放つ拠り所だ。そういった拠り所を失った時に、事実を捻じ曲げてでも、という神経が働くのは極めて自然な感情だ、と私は思う。
美しい人間の美しい所作に感動をする事などない、とは決して言い切らないが、醜い人間の醜い所作に心を打たれる時もある。シェイクスピアの『マクベス』ではないが、「綺麗は穢い、穢いは綺麗」という言葉、つまり両義性というものは決して軽視してはいけないと私は感じるのだが。
最近、テレビや雑誌を見ていると、「美しく生きる」とか「自分らしく生きる」とか「自分を好きになって」みたいな言葉が安っぽく乱発されており、私はそれを非常に不愉快に感じている。同時に、誰の受け売りだかは知らないが、そんな言葉を表面だけなぞって連呼する輩にも。そういった言葉は、本来はもっと深遠な境地であり、「1980円安売り大セール」みたいにして使われる言葉ではないと私は思うのだが。安売りなだけならまだいいが、そこにはユーモアの欠片もないもの。何のユーモアもなく「愛」とか言う人間の事を私は信用しない。
或いは、屈折した人間を排除していくための一つのキャンペーンみたいなものなのかも知れない。「はい、みんなで素直になりましょー!それはとても美しいでーす!屈折してあれこれ考えるのは最悪でーす!」てな感じに。
思考停止。便利は便利だが、恐ろしいな。
何だか今日はいらない事をたくさん言ってしまいそうなので、この辺で終わります。ああ、こんな事書かなきゃ良かったのになあ。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 小岩「Back in time」10周年ウイーク突入(2020.03.19)
- 4月17日(水)セッション昼と夜で二つ(2019.04.16)
- 今度の月曜日はサックスの登さんと(2019.03.15)
- 連絡とりづらくなっております、のお知らせ(2019.03.03)
- 一人ゲネプロ大会(2019.02.26)
コメント
書かなきゃ良かったですね(笑)
でも、読むほうにとってはおもしろいですよ。
本文の趣旨とは別ですが、俺は北軍のほうの屈折にも興味があります。
彼らは「奴隷解放」を大義に掲げたわけですけど、ほんとは、解放奴隷を安価な工場労働者として買い上げたいという黒い欲望があったわけです。
はためには明らかだけれど、北軍の「勝利者」たちは、それをあからさまに抑圧し続けた。
それは、今の「アメリカ」にも引き継がれているんじゃないかな、とか。
愚にもつかないコメントですね。俺もいろいろありました。(brog参照)
人間、とにかく天寿をまっとうするべきです。
投稿: torii | 2006年5月27日 (土) 15時25分
toriiさんへ
どなたか亡くなられたようですね。人が死ぬっていう当たり前の事が、何で僕らをこうも右往左往させるんですかね。人間ちゅうのは矮小ですな、それにしても。
さてさて、北軍側の視点というのは、実は僕はまだ勉強不足でそれほど知らなかったのですが、言われてみればそれは当然、戦争をする人間たちは結局何かしらの「利益」のためにする訳ですからね、そんな事も当然ありますわな。
確かに、「勝利者」という薄っぺらい自負をもって世界で威張りくさるアメリカの今の醜態の一因にはそうした北軍の歴史が影を落としていると考えるのは極めて自然なことかな、と気付かされました。たまにはネット上とは言えど、こんな会話も楽しいですな。うふふ。
投稿: 福島剛 | 2006年5月27日 (土) 18時13分
追加
ミクシイの方の日記見てましたわ。HPの日記、今読みました。こんな場(ウェブ上)でする話じゃなさそうですし、また今度ゆっくり話しましょう。
投稿: 福島剛 | 2006年5月27日 (土) 18時31分
>HPの日記、今読みました
うん。福島にとっての師匠と同じように、というと御幣があるかもしれないけれど、とにかくでかい存在でした。それと、自殺ってことがやっぱりでかい。
ただ、基本的には、前向き(って、広告屋のせいであんまりいい言葉じゃなくなってきたけどな)になってきています。俺の音楽や、文章も変わるだろうな、と。そうやっていくことが、俺にとっての「菩提を弔う」ってやつかと。
また飲みましょう。夏には京都、また帰りますよ。
投稿: torii | 2006年5月28日 (日) 14時49分
toriiさんへ
ぼくはまだ幸いにして自殺によって親しい人を失ったという経験はありません。故にその残された人間のやり切れなさというのは所詮想像の域を出ない訳ですが、それでもお察しします。
夏に京都に来るのを楽しみにしてますね。今年の夏は、どうやらぼくは東京には帰れなさそうですので。
投稿: 福島剛 | 2006年5月29日 (月) 12時39分