« 花火① | トップページ | OLD is NEW »

2006年4月26日 (水)

花火②

駅に降り立つと、雨を交わすために私は改札の前へと小走りに急いだ。まだ雨脚は弱まる気配を見せない。改札口は自動改札ではなかった。「切符入れ」と丁寧な文字で書かれた木箱が一つ置いてあるだけ。降りた乗客たちはめいめいにそこに自分の切符を入れていく。それはこの町が信用を重んじる事で成り立っている象徴のようにも私には感じられた。

改札の向こう側に私は傘を二本抱えた幼い少女の姿を見た。父の帰りを待っているのだろうか。そわそわと辺りを見回しては、落ち着かない感じがある。けれど私は知っている。彼女は改札のこちら側に自分の父を見つければ、安堵で顔が綻ぶのだ。一人であった事の寂しさが、父の存在でかき消される。それは幼い時の私の体験からよくわかる。私もかつてこの眼前の少女のように、急に雨が降ると父を迎えに駅まで遣いに出されたものだった。そして、一人で父を待つ寂しさ。今降りてくるか今降りてくるかと周囲を見回していた。そして、父の姿を見た時には、それまでの寂しさに比例して安堵するのだ。

「早くお父さんがやってくればいいね。」

私は心の中でそう呟いたが、それはまるで幼い頃の私に向けて言っているようでもあった。

私が秋田のこの地を訪れたのは、そんな父や母との思い出から、というのもあった。共働きで忙しくしていた両親と私、家族三人での旅行の思い出というのは、たったの一度しかない。私が小学校の低学年の頃だっただろうか、三人でこの秋田を訪れたのだ。厳しい寒さが徐々に顔を覗かせ始める、初冬の頃だったと思う。私は寒い寒いと言いながら、父の手を握って歩いた記憶がある。その時の父の手のぬくもりが、いや、亡くなった父や母の手のぬくもりがこの秋田の地でもう一度私の脳裏に甦るような気もしていた。かつて共に周った十和田湖や田沢湖やらを巡りながら、私は十年以上前に亡くなった両親の事を思い出していた。

改札をくぐった。切符入れに入れた私の切符は、もう少し先の駅までの運賃で買っていたので、少しお金は無駄になってしまったが、私にはそれはどうでもいい事だった。それよりも、この町に降り立った時から、私の中で芽生え始めたこの町に対する興味や期待、そういったものを抱いている自分が嬉しかった。改札には、地元の子だろう、中学生ぐらいの女の子の二人組が仲良く会話を交わしている。私は今日の宿の事で彼女達に助言を求める事にした。雨宿りがてら、という事もあり、何よりこの町の住人と会話がしたかった、というのもあった。

「こんにちは。」私が二人に声をかけた。

「こんにちは。」秋田独特のイントネーションで声を揃えて二人が私に返した。二人は顔を見合わせて怪訝そうな表情をしていた。それはそうだ。見知らぬ人に急に声をかけられているのだから。

「私、この町初めてなの。泊まるところもまだ決まってないし。あなたたち、もしどこか良い所があるなら教えてくれない?」と、私はゆっくり尋ねた。

ああ、と頷いたような表情を見せてから、少女達はどこがいいか、と相談を始めた。

「ちょっと待ってくださいね。知ってる事は知ってるけど、どこがいいか考えますから。」少女の一人がそう言った。

「いいのよ、そんなに深く考えてくれなくても。」私は何だか照れくさくなってそう言った。

駅の外に目を向けた。雨はまだ上がっていない。その時、駅の近くのバス停に停めてある一台のオートバイが目に止まった。そして、そのバイクの傍らには若い男が、彼も雨宿りだろうか、雨を避けて座っている。そして彼を見る。私は彼を知っていた。どこかであった事がある。記憶の糸をたぐり寄せる。それはそんなに遠い過去の話ではない。そうだ、私は今回、この秋田の旅で数度、彼とすれ違っている。喋った訳ではないので、彼が私の存在をはっきりと認識しているかどうかは怪しいものだ。私の眼前で私に勧める宿について相談をする少女越しにその男を見ながら、私はそんな事を思った。男もその瞬間、ふっとこちらを見やった。彼の視線と私の視線が交錯する。一瞬彼が笑ったように見えた。が、彼はすぐに視線をそらした。この秋田の地で数度すれ違っただけの彼の顔を私がうっすらと覚えていたように、彼も私の顔を覚えていたのだろうか、私はそう考えた。

目の前の少女達は話がまとまったようで、私に提案をした。

「親戚の叔母さんが小さな旅館をやってるんですけど、そこで良かったら。」とさっき私に話し掛けたのとは別の少女が言った。

「ありがとう、それじゃお世話になろうかしら。そこ、どこにあるの?」と私が尋ねた。

「ちょっと口じゃあ説明しづらいんですけど、近くにあるんで案内しますよ」と少女が答える。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。よろしくね」と私が言った。

「雨がまだ強いから、上がったら一緒に行きましょう。すぐ上がりますよ。」ともう一人の少女が言う。そうね、ありがとう、と私も相槌を打つ。

「ちょっとこの駅の辺り、見回っててもいいかしら。」私は彼女達に言った。彼女達は陽気にどうぞ、と言う。そして私は歩みを進めた。ゆっくりと、一歩ずつ。そしてしばらくすると、私のすぐ前にはバス停があり、そしてバイクで旅行を続けている男がいた。

「よく会いますね。」私は声をかけた。果たして彼は覚えているだろうか。そんな不安もあった。

「確か、田沢湖でも。」私はそう付け足した。

「角館と、十和田でも。」彼は私に視線を合わせずに、ぼそぼそとした口調でそう言った。

彼は私の事を覚えていた。そして、私も彼の事を覚えていた。私はその事にとても嬉しい気持ちになった。

男はすうっと立ち上がった。これまで座っていた彼を見下ろしていた私の視線が、今度は彼を見上げる事になる。お互いがお互いを認識し合っていた、という事がわかった事から来る照れくささのようなもので、私も彼もしばらく沈黙した。すると、そこまでポツポツと地面や駅の屋根を叩き続けていた雨の音がやんだ。雨が、上がったのだ。

「あがったみたいね」私が言う。彼は小さく頷いた。

彼はバイクの準備を始めた。また雨に見舞われない内に彼もまた自分の宿泊地に行くのだろう。彼のバイクの後部座席にはテントらしきものも積んである。あれで野宿をするのだろうか。それとも今日はどこかへ泊まるのだろうか。そんな事を考えていると、彼はバイクにさっと跨った。そして彼はこう言った。

「また、会えますよね」

そう言うと彼はバイクのエンジンをかけて走って行ってしまった。

私の心に何とも言えない暖かな気持ちが広がった。これは恋ではない。これを恋と呼ぶほど私は若くない。そう思っている。しかし、何かが変わっていく。やはり私の中では何かが変わっていっているのだ、と実感した。恋は、遠い日の花火ではない。私の中で小さな花火が上がったのだ。

少女達に先導されて宿へ向かう道すがら、少女達の軽い足取りにつられて、私も小さくジャンプをした。少女達と私とでは年齢は倍以上も違う。けれど、その時の私のジャンプは、少女達の足取りよりも、ひょっとしたら軽やかだったかもしれない。

|

« 花火① | トップページ | OLD is NEW »

創作」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 花火②:

« 花火① | トップページ | OLD is NEW »