本日、かなりの長文です。でも最後まで読んでくれると嬉しいです。いつもとは少し違うテンションで、一生懸命書いてみました。書くのに少し躊躇や逡巡もありましたが、読み通して頂ければ幸いです。
先日、我が家の郵便ポストに一枚の葉書が投函されていた。
差出人の名前に谷口慶氏とあった。悪意も何もなく書くが、私は彼の事をさほどよくは知らない。勿論、直接の面識は一度ある。それは今から三年前、2003年の五月だったと記憶しているが、私の友人である谷口昭良(たにぐちあきら)氏の「お別れ会」の時であった。
谷口アキラ、詳しくはサイドのリンクから見て頂きたいが、彼は2003年の四月に28歳の若さでこの世を去った。不思議なもので、もうそれから三年の月日が流れている。私に葉書を送ってくれた谷口慶氏は、アキラ氏の兄であり、その葉書の内容はアキラ氏の写真展の案内であった。
私とアキラ氏との出会いは、2001年、インドの地においてであった。確かデリーの安宿であったと思う。私はヒマラヤから下山してきた所で、彼はチベットからインドに入国して間もない時であった。私がよく覚えているのは、彼がその時にチベットの事を熱っぽく語っていた事だ。チベットという地域は中国の中でもはっきりと独立した文化や国民性を持っており、そこを漢民族の枠にあてはめて考えようとするのは無理がある、中国は一刻も早くチベット自治区を独立させるべきだ、と彼は言っていたと思う。ふむふむ、と私は興味深く聞いた後、私が訪れたばかりのヒマラヤ山中での話をすると、彼もまた興味深そうにその話を聞いた。インドを旅している日本人同士の間でよく見られる光景、といえばまさしくその通りだが、私はその時何とも楽しい時を過ごしたのを覚えている。
その後私はデリーから東へ、バラナシという町へと足を進め、彼は西へ、インド・パキスタン間の国境の町アムリトサルへと向かう為、そこで別れた。
日本人に限らず、旅先で多くのツーリストと出会ったが、その後今日に至っても付き合いがある人間というのは実はごく少数だ。タイミングのズレみたいな物もあるのかも知れないが、次第に疎遠になった人間もいるし、旅先で出会ってそれっきり、そういう人も多くいる。小学校や中学校、高校、大学と幾人の人との出会いがあったにも関わらず、未だに付き合いを維持する人間がそのごく数パーセントの人間にしか満たないのとよく似ている。結局自分とウマの合う人間とでも言えばいいのだろうか、そういう人間をおこがましくも無意識下で私は選別しているのかもしれない。誰とでも分け隔てなく親しく付き合える能力、そういった物が私には著しく欠如しているのだろう。難儀である。こういった所はとても難儀である。稀にその能力を有した人に出会う事があるが、その時には私はほんの少しの反感と大いなる憧憬の念によってその人の「特殊能力」を眺める事となる。本当に「その能力」を有する人はそれを決して打算では行わないのだが、まるっきり私の中に欠如した能力であるために私はどこか打算ではないか、と疑ったりもする。嫌らしい性格だ。
閑話休題(便利な言葉だ)。アキラ氏は、私が日本に帰ってからも付き合いのあった数少ない人の一人であった。日本に帰ってからわかった事なのだが、彼が住んでいたのは千葉の船橋という所、当時私の住んでいたのは東京の小岩。同じ総武線沿線で5~6駅間ほどしか離れていない極めて近い所に住んでいた事が判明したのだ。小岩の私の実家で酒を飲んだり、小岩の安い呑み屋で酒を飲んだり、船橋の呑み屋で酒を飲んだり、とにかくよく一緒に酒を飲んだ。一番はっきりと覚えているのは、一緒に下北沢に彼の知り合いの劇団の芝居を見に行って、帰りに終電がなくなるほどの時間まで駅前の「餃子の王将」でビールを山ほど飲みながらうだうだと話していた事だ。下らない話もたくさんした。それぞれの自分の過去の話や、最近のニュースの話、女の話、それから自分の将来の話。彼は写真を撮っていたし、私はもうその時にはピアノを弾いていた。彼は写真家になりたいと言い、私はピアノ弾きになりたいと言っていた。酒を飲む約束を交わした時に、彼はよく最近撮った自分の写真などを現像して持って来る事があった。私は写真の事は全くの門外漢であったにも関わらず、「この写真は好きだ」とか「この写真はいまいちピンと来ない」とか偉そうな事を言っていた。お前のような素人の意見を簡単に無視してたらダメなんだ、と彼は言っていたが、私はその当時、いや、別に無視してもいいんじゃねえかな、好き勝手言ってる訳だし、と思っていた。酔っ払った時に一度私が「俺、三十歳までにきちんとしたピアノ弾きになるから、そしたらアキラさんの写真と一緒にライブしましょうね」と言っていたのを彼がその後からかうように何度か酒の席で持ち出して、少し私は赤面していたりもした。でも、彼は「いつかやりたいな、俺もたくさん良い写真撮れるようになるよ」と言ってくれていた。あと数年で私も三十歳になるが、まだきちんとしたピアニストにはなっていない。何とかせねば。
東京で私が暮らしていた時に、そんなやり取りをしていたのが、彼との最後の思い出だ。しばらくしてから私が京都に移り住んで、直接会うことはなくなった。メールのやり取りはたまにあった。その彼からの最後のメールは、今からタイに行って写真を撮ってくる、という内容の物だった。前に進んでいるのかどうかはわからないが、取り敢えず「動いて」いるな、私はそう思った。彼はその旅先のタイで死んだ。交通事故だったそうだ。
その日、携帯電話が鳴って、液晶上に見慣れない電話番号が通知された。電話口に出たのは女性だった。「谷口アキラを知っているか?」と問われた。知っている、私は答えた。女性はアキラ氏の従姉妹だそうで、彼が旅先のタイで亡くなった事を私に伝えてくれた。私はその女性にどういう受け答えをしたのかよく覚えていない。とても奇妙な感覚に襲われたのははっきりと覚えているのだが。
その電話があったのは木曜日であった。何故曜日を覚えているかと言えば、木曜日はピアノのレッスンの日であったからだ。私は何が何やらわからぬまま、師匠市川修の元へ向かった。いつものようにレッスンは進んだが、師匠が私のちょっとした異変に気付き「お前、何かあったか?」と私に尋ねた。私は「はい、まだ現実味がないんですが」と前置きしてその電話の事を話した。私は師匠には何の衒いもなく、すっと自分の弱さを見せてしまっていた。受け入れる懐の深さ、師匠の深さは海よりも深かった。私の話を聞くと、師匠は困ったような表情をして、「よし、レッスンやめよう」と言っておもむろにピアノの横の台所に立つと、ラーメンをゆで始めた。変な事はしっかり覚えているが、それはサッポロ一番塩ラーメンだった。卵を二つ入れてくれて、「食え」と言って私に渡してくれた。それが市川修という人の「優しさ」の表現方法だった。彼は安直な慰めの言葉などよりも多くの優しさを、いつも私に与えてくれた。ラーメンを啜っている私の頭をポンポンと叩いて「腹が空いたら余計に悲しくなる、食え」と言ってくれた。私は涙と鼻水をどばどばと流しながらラーメンを啜った。私が食べ終わると、師匠は「帰って寝ろ、少し休め」と言った。私はその通りにした。
レッスンから家に帰ると、本当に少し疲れていたので私はしばらく昼寝をした。起きたのは夕方の七時ぐらいであったと思う。起きると、私の携帯電話の着信を告げるランプが光っていた。着信の欄には「市川修携帯」と入っていた。留守番電話が残っており、それを再生すると師匠の独特のゆったりとした口調で、私を励ますメッセージが残っていた。ありがたいな、市川修という師匠に出会えて私は本当に幸せだ、そんな事を考えていた時に、再度携帯電話が鳴った。今度は知らない番号からだった。
番号の始めが市外局番の075で始まっていたので、京都のどこかからの電話であったのはわかった。私が電話を取ると、電話口からは師匠の声が聞こえた。
―何してた?
―寝てました。すいません、電話もらってたみたいで。留守番電話聞きました。ありがとうございます。
―今セサモ(河原町三条にある小さなレストラン。師匠は木曜日にその店でソロ・ピアノの演奏をしていた)からかけてるんやけどな、今からセサモに来んか?今日演奏してんねん。
―あ、行きます。今から出ます。
―よし、待ってるで。
そんなやり取りだったと思う。私は簡単に身支度を済ませてセサモに向かった。何で行ったのかは覚えていない。バスだったかも知れないし、自転車だったかも知れない。とにかく私はセサモに着いた。
店内に入ると、師匠が壊れかけたアップライトのピアノに向かっていた。師匠は私が来た事に気付くと、ピアノを弾きながらニヤっと私に微笑みかけた。私はビールを注文して師匠のピアノの音色に耳を傾けた。サスティンのペダルも壊れ、打鍵のハンマーもきちんと返ってこないようなオンボロのピアノから出る音とは思えない、とても澄んだ音色のピアノを私は聴いていた。
その刹那、師匠が立ち上がって大声で叫んだ。
俺が今からその男を天国に送り届けてやる!
弾き始めたのは「On the sunny side of the street」。心配事はドアの所に置いてきて、明るい表通りを歩こうぜ。そんな歌詞の付いたジャズのスタンダードナンバーだ。師匠がどういう意図でその曲を演奏してくれたのかはわからない。けれど、その日のその演奏は、とてもハッピーで、暖かく、激しく、優しく、そしてとても悲しかった。
帰り際にも師匠と言葉を交わしたと思う。だがその内容を私はよく覚えていない。ただ、「On the sunny side of the street」を弾いてくれていた師匠の姿、そしてその演奏は、三年経った今でも、ついさっき見た事聴いた事のようにはっきりと覚えている。そしてその演奏は、私の心の一番深い所に突き刺さり、未だに忘れ得ぬ(きっと生涯忘れ得ぬ)最も大事な演奏となっているのだ。
今となっては師匠市川修も友谷口昭良もこの世にはいない。まだまだ不思議な事で、未熟な私はその事を全て受け入れられていない。口先だけで何かを言うのは簡単だ。だからこそ、彼らの分も、とか彼らの事を糧にこれからも頑張って、なんて言葉は吐きたくはない。そんな言葉を吐けるほど私は大それた人間ではないし、何だか言ってしまうと私が白けてしまう。私は彼らと出会えた事に感謝をしたい。そして彼らがいつも私の傍に居てくれている事に。
最後になった。長文を読んでくれた方には感謝します。私の駄文などより一番書きたかったのは、冒頭に書いた先日やって来た葉書の事。件の谷口アキラ氏の写真展が横浜で開催されます。詳細は以下。
・ 谷口アキラ写真展「Giving EXPRESSIONⅡ-伝えたかったことー」
期間:2006年4月21日(金)~5月7日(日)
場所:JICA横浜 横浜市中区新港2-3-1
交通手段:桜木町駅 汽車道、ワールドポーターズ、サークルウォークを通り徒歩15分
馬車道駅(みなとみらい線)4番万国橋出口からワールドポーターズ方向に徒歩10分
自動車:首都高速神奈川線みなとみらいICから5分
開館時間=10:00~18:00(入館は17:30まで)
入場無料
詳細: http://homepage3.nifty.com/tanitani55/
横浜なので、私は今回見に行けるかどうかわからないのですが、行ければいいな、と思っています。関東方面にお住まいの人は、是非足を運んでみて下さい。
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