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2006年4月

2006年4月29日 (土)

からん

私のウリは「暇であること」なのだが、その私がこの二、三日ちょっと忙しかった。まあ、中には遊びに行ったりで忙しかったのもあるのだが。そういうのは忙しいとは言わないか。つまり、何の取り柄もない人になっていたのだ。私から「暇」を取り上げたら、何も残らない。残るのは、鼻につく自尊心の痕跡と、虚栄心に満ちたプライドぐらいか。いやいや、自虐遊びはやめよう。惨めになる。とにかく、ブログを書く時間がなかったので、何日か空いての更新だ。

昨夜は第4金曜日だったので、祇園ピックアップでの演奏を終えて午前4時半、只今帰宅。北区に帰宅。そしてキーボードを叩く。ああ、下らない。ピックアップでの演奏は楽しかったし、私の機嫌も良いのだが、何せ疲れた。帰りにコンビニで発泡酒「円熟」のロング缶を一本購入したので、それを飲みながらこうしてブログを更新しているが、疲れているので下らない駄洒落も出るわけだ。

このまま終わったら、読み物としてはあまりにつまらないので、今日は「私の好きな音」について少しだけ。ピアノの音、とかそういうのではなくて、もっと日常生活にありふれた「音」について。

最近気付いたのだが、私の好きな音はウィスキーなんかが入ったロックグラスの中で、氷が溶けて「からん」という音、あれが好きだ。何とも耳に心地よい。何かこう、氷と一緒に時間が磨り減っていくような、それと同時に自分も磨り減っていくような、そんな気持ちにさせられるから好きだ。時間が無駄に過ぎていく。そうだ、人生は限りあるのだから、限りある時間を可能な限り無駄に使いたい。無駄な時間。何も生まない、何も作らない。最高だ。氷の溶けるその音は、無駄な時間を象徴するような音に私の耳には聞こえるのだ。氷が溶けるのと同時に私の未来も少し溶ける。後悔と言う名の水が嵩を増す。その瞬間に、私の心は最も安堵する。そして苦笑い。基本的な性格がとても暗いのだと思う。

この音が好きだと気付いたのは、またしてもウィスキーのCMだ。今回はニッカのオールモルト、そう、石田ゆり子の「女房酔わせてどうするつもり?」だ。あのCMを家で一人で見てると、65%ぐらいの高確率で「いやいや、どうするもこうするもねえだろ」とTVに向かって独り言を呟いてしまう。もちろんにやけながら、だ。ああああ、気持ち悪い。そのニッカのCMで、絶妙のタイミングでロックグラスの「からん」が入るのだ。映像だけでなく、聴覚にも心地よい。そうだ、目の前の石田ゆり子は可愛らしくて綺麗で、そして私は無様で無意味だ。そう考えると余計に心地よくその音が響く。からん。からん。からん。

今日はもう一つ、ジャズの実用性と必然性という事についても考えをめぐらせていた時間があったのだが、別に今はそれについて書きたくないので書かない。今からサントリーニューオールドやニッカオールモルトに匹敵するようなCMのアイディアを妄想しながら寝る。考えがまとまったら広告代理店に500万円でそのアイディアを売り渡す事もついでに妄想する。

今日の最後に。今は無性に誰かに嘘をつきたい。

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2006年4月26日 (水)

脱力について

水曜日は週にたった一回の運動の日、即ち柔道の日だ。今日もやってまいりました、柔道を。楽しかった、柔道は楽しい。腰がじんじんと痛むのを除けば、今日は先週よりも体の痛みは少ない。ふくらはぎも太ももも、そんなに筋肉が張ってはいない。少しずつ体が柔道に慣れているのかも知れない。いやはや、嬉しい。

多くのスポーツで必要な動作(或いは状態)の一つに「脱力」というものがある。柔道もしかり、「脱力」がとても大事な武道だ。最重要項目の一つと言っていいぐらい大事かもしれない。柔道には「柔能制剛(じゅうよくごうをせいす)」という言葉があるが、この言葉の実践に欠かす事が出来ないのが、「脱力」なのだ。具体的に何のためにそれが必要かと言えば、「脱力」の対極の動作、「緊張」の動作によって生じた力を、一瞬のタイミングで相手に伝えるために「脱力」が必要になり、また外部からの力を柳の枝のように受け流すために「脱力」が必要となる。もちろんそれだけではなく、他にも必要な要素はある。しかし、世界のトップで戦う柔道家、鈴木桂司や野村忠宏や谷亮子、彼らだけではないが、一流の柔道家はみな肩の力が抜けている。文字通り、とても自然な姿勢で柔道をしているのだ。野球選手のバッティングでもそれはそうだ。理想的な「脱力」のバッティングをする選手は、私の知る限りでは現役時代の落合博満現中日監督、現広島カープの前田智徳、そしてシアトル・マリナーズのイチロー、この三人だけだ。彼らのバッティングには共通点がある。バットがボールに当たるインパクトのその瞬間まで、彼らはほとんど腕に力を入れていない。インパクトの瞬間にのみ、体の筋肉全体が緊張し、収縮する。それは最早芸術の域だ。「脱力」を徹底的に身に付けた彼らのバッティングには、決してステロイドなど必要としない、有機栽培の趣きがある。

柔道や野球における「脱力」の重要さを再認識した所で、私はピアノの事を考えた。ピアノを弾く際にも「脱力」がとても重要となる。私は肩から指先まで、完全に弛緩した状態を「完全弛緩状態」と呼ぶ事にしているのだが(そのまんまだな)、その状態になって初めて、脳からの指を動かそうとする信号(指令)がダイレクトに伝わると思っている。その状態を作り出す事で、頭に思い描いた音楽がより鮮明に描き出される。つまり感情の発露、というような抽象的な音楽表現の話になった場合、それは完全弛緩という具体的な技術論へと展開されていくのだ。音楽に感情を乗せたい場合は、力を入れてはいけないのだ。むしろ脱力しなくてはいけない。その逆説的な真実が、まだ完全に実践は出来ていないものの、やっと最近わかりかけて来た。

タコになりたい。タコはぐにゃんぐにゃんだ。弛緩している。

タコになりたい。タコになりたい。タコが言うのよねえ・・・・・・

あっ、また最後は田中裕子ネタだ、イカンイカン!

ちなみに↑のネタがわかってしまった人は、もう筋肉痛が二日後以降に来る年齢の人ですね。

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OLD is NEW

いやあ、只今夜の午前三時半。草木も眠る丑三つ時ですよ。こんな時間まで何をしてたかと言うと、↓の創作を仕上げてたんですな、小説を。丸一日かかりました。これしきの量を書くのに。

そして、書いたものについて少しだけ補足しておきますと、実はこれ、完全オリジナルじゃないんです。今から12年前にTVで流れていたサントリーのニューオールドというウィスキーのCMがあって、それをモチーフにして私が勝手に話を付け足し、つまり妄想力をフルに発揮して仕上げてみました。昨日、ネットサーフィンをしていたら、他人のブログでたまたまこのCMの動画を見つけてしまったんです。そして、モリモリと創作意欲が湧いてきて、みたいな流れです。

そのCM、出ていたのが12年前の田中裕子さんという女優さんと、男の役は名前の知らない若い俳優さん。つまり、CMで流れてたのは

女「よく会いますね。確か田沢湖でも」

男「角館と、十和田でも」

女「(雨)上がったみたいね」

男「また、会えますよね」

恋は、遠い日の花火ではない

↑これだけの流れなんですよ。この情報を元に、何で二人は秋田にいるのか、とか、雨が何を象徴しているのか、とか、下らん事をたくさん考えながら書いてみた訳です。いやあ、楽しかった。はたから見たら相当にキモチ悪いんだろうけど。ちゅう事で、このCMを知ってる人も知らない人も、気持ち悪い私の創作を読んでやって下さい。

そしてね、一番言いたかったのはこれ。

12年前の田中裕子は天下無双に美しい!

これですわ。多分、今12年前の田中裕子が私の前に現れて、「音楽辞めて私と結婚して!」って言われたらかなり悩みますね。私はずっと「理想の女性は芸能人で言うと誰?」って聞かれた折には田中裕子さんと答えるようにしてるのですが、やはり改めてそうですね。

ジュリーめ、ちきしょう!!!

深夜に一気に書き上げて異常なまでのハイテンションでした。

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花火②

駅に降り立つと、雨を交わすために私は改札の前へと小走りに急いだ。まだ雨脚は弱まる気配を見せない。改札口は自動改札ではなかった。「切符入れ」と丁寧な文字で書かれた木箱が一つ置いてあるだけ。降りた乗客たちはめいめいにそこに自分の切符を入れていく。それはこの町が信用を重んじる事で成り立っている象徴のようにも私には感じられた。

改札の向こう側に私は傘を二本抱えた幼い少女の姿を見た。父の帰りを待っているのだろうか。そわそわと辺りを見回しては、落ち着かない感じがある。けれど私は知っている。彼女は改札のこちら側に自分の父を見つければ、安堵で顔が綻ぶのだ。一人であった事の寂しさが、父の存在でかき消される。それは幼い時の私の体験からよくわかる。私もかつてこの眼前の少女のように、急に雨が降ると父を迎えに駅まで遣いに出されたものだった。そして、一人で父を待つ寂しさ。今降りてくるか今降りてくるかと周囲を見回していた。そして、父の姿を見た時には、それまでの寂しさに比例して安堵するのだ。

「早くお父さんがやってくればいいね。」

私は心の中でそう呟いたが、それはまるで幼い頃の私に向けて言っているようでもあった。

私が秋田のこの地を訪れたのは、そんな父や母との思い出から、というのもあった。共働きで忙しくしていた両親と私、家族三人での旅行の思い出というのは、たったの一度しかない。私が小学校の低学年の頃だっただろうか、三人でこの秋田を訪れたのだ。厳しい寒さが徐々に顔を覗かせ始める、初冬の頃だったと思う。私は寒い寒いと言いながら、父の手を握って歩いた記憶がある。その時の父の手のぬくもりが、いや、亡くなった父や母の手のぬくもりがこの秋田の地でもう一度私の脳裏に甦るような気もしていた。かつて共に周った十和田湖や田沢湖やらを巡りながら、私は十年以上前に亡くなった両親の事を思い出していた。

改札をくぐった。切符入れに入れた私の切符は、もう少し先の駅までの運賃で買っていたので、少しお金は無駄になってしまったが、私にはそれはどうでもいい事だった。それよりも、この町に降り立った時から、私の中で芽生え始めたこの町に対する興味や期待、そういったものを抱いている自分が嬉しかった。改札には、地元の子だろう、中学生ぐらいの女の子の二人組が仲良く会話を交わしている。私は今日の宿の事で彼女達に助言を求める事にした。雨宿りがてら、という事もあり、何よりこの町の住人と会話がしたかった、というのもあった。

「こんにちは。」私が二人に声をかけた。

「こんにちは。」秋田独特のイントネーションで声を揃えて二人が私に返した。二人は顔を見合わせて怪訝そうな表情をしていた。それはそうだ。見知らぬ人に急に声をかけられているのだから。

「私、この町初めてなの。泊まるところもまだ決まってないし。あなたたち、もしどこか良い所があるなら教えてくれない?」と、私はゆっくり尋ねた。

ああ、と頷いたような表情を見せてから、少女達はどこがいいか、と相談を始めた。

「ちょっと待ってくださいね。知ってる事は知ってるけど、どこがいいか考えますから。」少女の一人がそう言った。

「いいのよ、そんなに深く考えてくれなくても。」私は何だか照れくさくなってそう言った。

駅の外に目を向けた。雨はまだ上がっていない。その時、駅の近くのバス停に停めてある一台のオートバイが目に止まった。そして、そのバイクの傍らには若い男が、彼も雨宿りだろうか、雨を避けて座っている。そして彼を見る。私は彼を知っていた。どこかであった事がある。記憶の糸をたぐり寄せる。それはそんなに遠い過去の話ではない。そうだ、私は今回、この秋田の旅で数度、彼とすれ違っている。喋った訳ではないので、彼が私の存在をはっきりと認識しているかどうかは怪しいものだ。私の眼前で私に勧める宿について相談をする少女越しにその男を見ながら、私はそんな事を思った。男もその瞬間、ふっとこちらを見やった。彼の視線と私の視線が交錯する。一瞬彼が笑ったように見えた。が、彼はすぐに視線をそらした。この秋田の地で数度すれ違っただけの彼の顔を私がうっすらと覚えていたように、彼も私の顔を覚えていたのだろうか、私はそう考えた。

目の前の少女達は話がまとまったようで、私に提案をした。

「親戚の叔母さんが小さな旅館をやってるんですけど、そこで良かったら。」とさっき私に話し掛けたのとは別の少女が言った。

「ありがとう、それじゃお世話になろうかしら。そこ、どこにあるの?」と私が尋ねた。

「ちょっと口じゃあ説明しづらいんですけど、近くにあるんで案内しますよ」と少女が答える。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。よろしくね」と私が言った。

「雨がまだ強いから、上がったら一緒に行きましょう。すぐ上がりますよ。」ともう一人の少女が言う。そうね、ありがとう、と私も相槌を打つ。

「ちょっとこの駅の辺り、見回っててもいいかしら。」私は彼女達に言った。彼女達は陽気にどうぞ、と言う。そして私は歩みを進めた。ゆっくりと、一歩ずつ。そしてしばらくすると、私のすぐ前にはバス停があり、そしてバイクで旅行を続けている男がいた。

「よく会いますね。」私は声をかけた。果たして彼は覚えているだろうか。そんな不安もあった。

「確か、田沢湖でも。」私はそう付け足した。

「角館と、十和田でも。」彼は私に視線を合わせずに、ぼそぼそとした口調でそう言った。

彼は私の事を覚えていた。そして、私も彼の事を覚えていた。私はその事にとても嬉しい気持ちになった。

男はすうっと立ち上がった。これまで座っていた彼を見下ろしていた私の視線が、今度は彼を見上げる事になる。お互いがお互いを認識し合っていた、という事がわかった事から来る照れくささのようなもので、私も彼もしばらく沈黙した。すると、そこまでポツポツと地面や駅の屋根を叩き続けていた雨の音がやんだ。雨が、上がったのだ。

「あがったみたいね」私が言う。彼は小さく頷いた。

彼はバイクの準備を始めた。また雨に見舞われない内に彼もまた自分の宿泊地に行くのだろう。彼のバイクの後部座席にはテントらしきものも積んである。あれで野宿をするのだろうか。それとも今日はどこかへ泊まるのだろうか。そんな事を考えていると、彼はバイクにさっと跨った。そして彼はこう言った。

「また、会えますよね」

そう言うと彼はバイクのエンジンをかけて走って行ってしまった。

私の心に何とも言えない暖かな気持ちが広がった。これは恋ではない。これを恋と呼ぶほど私は若くない。そう思っている。しかし、何かが変わっていく。やはり私の中では何かが変わっていっているのだ、と実感した。恋は、遠い日の花火ではない。私の中で小さな花火が上がったのだ。

少女達に先導されて宿へ向かう道すがら、少女達の軽い足取りにつられて、私も小さくジャンプをした。少女達と私とでは年齢は倍以上も違う。けれど、その時の私のジャンプは、少女達の足取りよりも、ひょっとしたら軽やかだったかもしれない。

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2006年4月25日 (火)

花火①

はい、予告していた通り、創作の小説です。前編だけ書き上がったのでアップします。

秋田の大地を走る列車の車窓の向こう側に広がる田園風景を、私は何ともやるせないような切ないような気持ちで眺めていた。大分西に傾いた太陽が照らすその風景の美しさは、あまりに眩し過ぎてまだ私の目には馴染まなかったのだ。微かに開いた車窓の隙間から土の匂いがぷんと香り、私の鼻腔を軽く突いた。私はこの香りを初めて嗅ぐ訳ではない。だが、ふとした瞬間にその香りはまるで異世界への入り口の鍵のように私の意識を連れ去ろうとした。ここではないどこかへと。それはこれまでにない初めての体験だった。列車の座席に体を沈め、鼻腔に微かな土の匂いを感じながら瞼を閉じると、そこにあるはずの私の意識は、そこからどこかへと移っていくかのような錯覚に陥った。

その凡そ一ヶ月程前に勤め先を辞めた。辞めたとは言っても正式に辞めた訳ではない。勤め先の社長に私が仕事を辞めたい、と持ち掛けた所、社長はしばし沈黙してから「ならば無期限での休暇という事にしないか」と私に提案してくれた。四十歳を間近に控えた女性である私では、再就職の際には正直に言ってかなり困難だ、社長は私にそう言った。確かに私もそう思っていた。取り立てて何か特別な技術を持っている訳でもない私のような年増女を、好き好んで誰が雇うだろうか。半ば自嘲的にそう思ってもいた。だからこそ、思ってもいない好条件の提示に私は躊躇した。ありがたい提案ではあった。勿論、社長からしてみたら、二十年以上勤め続けた私を手放して新たに若い人材を養うという事にいささかの面倒を感じたのかもしれない。しかし、その言葉にどこまで甘えていいものか、という逡巡が私にはあった。私の勝手な決断を思いもかけず擁護された事により、私は気まずいような気持ちにすらなった。返答をためらう私に、社長は「よし、来月からしばらく来なくていい。しばらく経ってまた来たくなったらいらっしゃい」と優しく声をかけた。そう、それは単なる私の我儘だった。しかしそうせざるを得なかったのだ。私は四十年近く生きてきて、何も築いていなかった。何も築かない私の人生に、私の中にいたもう一人の私が、急にノーを唱え始めてしまったのだ。結婚はしようと思えば一度出来た。私はそれを自らの手で断った。子供を産み、家庭を築く事よりも、一人でいる事を選んだのだ。それが私の最良の決断だったかどうかはわからない。けれどどんな選択にも必ず何かしらの後悔は付きまとう。私はそう考えている。たとえ今家庭を持っていたとしても、私の中に潜むもう一人の私はそれを同様に破壊しようとしたかもしれない。今は、少なくとも何かはわからない何かが変わっていく時間なのだ。諦観にも似たそうした思いから、私は変化を求めた。

十八歳の頃から二十年以上勤めた勤め先は東京の下町の小さな弁当屋だった。私はそこでパートタイマーとして働いていた。仕事は決して嫌いではなかった。店の客の大半は常連客で、私も働き出して半年も経った頃には彼らと顔見知りになり、軽い冗談のやり取りも交わすようになった。弁当を渡し、料金を受け取り、釣り銭を渡す。他愛も無い動作だ。けれどそこには何かふれ合いのようなものがあると私には感じられたし、私自身その事に満足していた。常連客の一人が不幸にも病気などで亡くなった、などと聞くと、私は切実な痛みを胸に感じた。それはまるで私の体の一部を切り取られるような痛みであった。所詮店員の女と客の一人という関係には過ぎなかったが、私の生活は弁当屋と一人の家の往復であったし、それが私の世界全体であったのだから、その世界の縁から一人一人誰かがこぼれ落ちていくのが、私には痛みとして感じられたのだった。

社長以外の職場の人間達も私に優しかった。或いはそこには私のような女性に対する同情や憐憫もあったのかも知れないが、仮にそういった物を考慮に入れたとしても、余りある快適さを私は感じていた。収入は決して多くはなかったが、三十九歳の独身女性が慎ましく生活していくのには十分だった。両親はどちらも私が二十代の頃に他界し、まさしく私は私一人を養えれば良かったのだ。私は多くを持たなかったし、多くを求めなかった。それが私の生き方だった。

列車が川にかかる鉄橋を渡り始めた。下方十数メートルはあろうかという地を流れる川の水は清らかに澄んでいる。八甲田山や岩木山から湧き出した清水は、まだ殆ど濁りを含んでいない。緩やかに流れる水は、間もなく沈むであろう太陽の光を無反省に反射しながらキラキラと輝いている。鉄橋の上で小刻みに揺れる列車の振動が座席越しに私の体に伝わって来て何とも心地よい。万華鏡のような川の水面に見入っていると、私の視界を突如暗闇が包んだ。列車がトンネルの中に入ったのだ。

トンネルの中には橙色のトンネル灯が光っている。まるで蛍が飛ぶかのように、私の眼前をそのトンネル灯が飛んでいく。私は子供の頃に見た影絵芝居を思い出した。漆黒の舞台を色取り取りの光が飛び交う影絵に、幼い私はうっとりと見入っていた。何かその妖しいような危ういような美しさ、そしてまるで神話の中の動物のように戯画化された登場人物達が、幼い私の心を捉えたのだった。トンネルの中の暗闇と、光と。そのコントラストの美しさにどこか懐かしさすら私は感じていた。

入ってから一分ほど経っただろうか、トンネルを抜けた時に私はある異変に気付き、少しだけ開いていた車窓を閉めた。トンネルを抜け、視界が開けた瞬間、私が目にしたのは降りしきる雨であった。山の天気は変わり易い。眩しい程の光に充ちていた世界は、一分間の暗闇を挟み、雨雲に光を遮られる世界へと変貌した。大丈夫、夕立よ。じきに雨は上がる。私は心の中でそう呟いた。

鉄橋の上での心地よい振動が、まだ少し私の体に余韻として残っていた。不安定な天気の移り変わりと共に、鉄橋の上での不安定であった列車を思い浮かべ、私の今欲しているものの一つは或いは「不安定さ」なのかもしれない、そう思った。

車内では、列車が次の駅に近付いてきた事を知らせるアナウンスが流れる。それは都会で聞き慣れたコンピューターの女性の無機質な声ではなく、昔ながらの車掌自らがマイクで喋る声だ。車掌のアナウンスには独特のこぶし回しのようなものがあった。秋田訛りも少し混じり、私は雨が列車を打つ音と共に、その声をどこか可笑しみをもって聞いていた。列車が駅に近付く。徐々に車体にブレーキがかかり、スピードが緩やかになっていく。ホームには、傘を差した電車待ちの客の姿がポツリポツリと見える。もう夕方だ、彼らは仕事帰りだろうか。私は今日の宿も取っていない。どこで降りても構わない。この時期ならばどこの町の宿も予約に手間取る事はないだろうし、実際この時まではその日その日に予約を取っても宿は楽に取れていた。次で降りようか、そう考えた。そう、どうしたって構わないほどの不安定さが私にはあり、それゆえに私は安定していた。

続く

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今日は

小説書いてます。どんな小説か、とか詳しい事はおいおい説明するとして、今日中に出来ればアップします。すごく下らないけれど充実した一日を、今過ごしている真っ最中です。

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2006年4月24日 (月)

目標は読破

今年の頭から本格的に(といっても一日平均10ページ前後)読み始めていた小説、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」の一巻がやっと読み終わった。何ヶ月かかってんだ、と我ながらツッコミを入れたくなる。しかしこの「ユリシーズ」、読む時には何かエイヤッと一歩踏み出さなければ読めないような所がある。詳しくは書かないが、とにかく理解するのに時間がかかる。「ユリシーズ」を10ページ読むのに要する時間は、例えば群よう子の‘無印エッセイ’を50ページぐらい読むのに要する時間と同じぐらいだ。ちなみに私は群よう子のエッセイは結構好きだ。何か読みたいけどそんなにヘビーなやつはちょっと、という時にうってつけだ。本にも色んな種類が必要なのだ。

一冊読み終わった充実感も大したものだ。しかし、この後まだ同等の長さの本が三冊残っている。「ユリシーズ」は文庫本で全四冊あるのだ。その事による「何とかなるのか、本当に~」という疲弊感みたいなものの方が強い。頑張って読もう、読み始めたんだし。

このブログを読んでくれている人たちや一般的な人たちの読書習慣については、どのくらいの頻度なのか、あるいはどのくらいの濃度なのか、そういった事は測りかねるが、私は平均的な読書習慣(何だか変な言葉だな)を持つ人よりも、ほんの少しだけ熱心な本読みだと自覚している。あくまでほんの少し、だ。本当に熱心な本読みの人に出会うと「うへえ、すいませんでした・・・」と謝りたくなる。そんなに大した事ではない。そういった偏差値52~57ぐらいの間の熱心さを持った本読みである私が一つ心がけている事は「読み始めた本はどんなにつまらなくても最後まで読み通す!」という事だ。とにかく最後まで。「こんな本読むんじゃなかった!時間の無駄じゃ!」と言って本を叩きつけるのは、全て読み終わってからでいいだろう、と思っているのだ。最悪の本との出会い、それ自体は私は嫌いではない。

だからこそ逆に途中で投げ出してしまうと、非常にブルーになる。とても自分を責めたくなるが、そこは都合のいいもので、「初めから読んでなかった事にしよう」などと自分で自分を言いくるめて忘れてしまう事にしている。本棚の見えない所に隠したりなんかして。でも、時々思い出す。私が途中で放り出した数々の作品を。トルストイの「戦争と平和」とか、プルーストの「失われた時を求めて」(これなんか全七巻の内一巻で挫折した)とか、デカルトの「方法序説」とかとかとか。とりあえず読みかかったついでとして、挫折した折にはその「簡易版」とでも言えるような本(例えば「30分で読める『戦争と平和』」みたいな本)を読んで、あらすじだけさらって少しぐらいは読んだ気になる。時には『戦争と平和』すら読破した事もないのに、「いやあ、トルストイっていう作家はねえ」などとさも訳知り顔で知ったかぶったりする。タチわりぃぃぃなあ・・・・・・

そんで何が言いたいかっていうと、私は『ユリシーズ』は絶対読破するぞ!っていう事ですよ!

その次には女医巣には『フィネガンズウェイク』っていうのが蟻鱒蛾、損な喪のは読むものカ戸いう琴ですyo!(←こういうのが『フィネガンズウェイク』風です)

この間CD屋さんで久しぶりにサンボマスターがかかっていたのを聴いたので、最後はこんな感じです。

今日、ニュースで古館伊知郎が言っていた言葉

「彼らはお金がなくてお腹が空いているかもしれませんが、心はジューシィですよね~」

ひっぱたいてメガネを斜めにしてやりたくなりました。

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2006年4月23日 (日)

暇なので

ついでにプロフィールの所から見られるライブ情報を一部更新しました。

ライブに来て下さいね。

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得た充実感・得たい充実感(それはラーメン)

昨日は結構大変だったなぁ、と家で自堕落な休日を過ごしながら思い出している。

午前中は、五月からバックバンドの一員としてツアーに参加する、ジョニー大倉(元キャロルの中心メンバー)のリハーサルに行って来た。慣れないロックンロールを演奏する事に対する不安が大きかったのだが、実際バンドと共に音を出してみるとロックンロールもたまには悪くない、楽しいな、と思った。

一番の問題点として昨日のリハーサルで浮上したのは、曲の構成を覚えたり、キメをしっかり覚えたり、つまり「間違えずに弾く」事の大事さだ。それを痛感した。ジャズやブルースの演奏だと、大まかなラインさえ決めてしまえば、あとは「その場の雰囲気で」みたいな所が多かれ少なかれある。そのやり方にあまりに慣れ過ぎてしまっている弊害が出て来ているのだ。「きちんと決められた通り弾く」という技術は、当然無いよりはあった方が良いし、私としても身に付けたいスキルの一つだ。今回のジョニー大倉バンドでの経験を通じてそのスキルの習得に辿り着く事、それが今回の目標の一つだ。この一ヶ月間で覚えなくてはいけない曲数は全部で30曲弱にも昇る。しっかり覚えないと。

この上記のツアーは、松山、岡山、福岡、名古屋、京都と回る予定で、つまり私たちバンドマンは、お小遣いを貰った上でタダで旅行が出来る、という事になるが、当然そこには「やるべき事をやったならば」という条件が付く。そう、きちんとせねば。まずは松山、岡山、福岡と五月に三連チャンがあるが、その最終日の福岡でステージ終了後に美味しく豚骨ラーメンを啜れるといい。充実感のある疲れの中で啜る屋台の豚骨ラーメンはさぞや美味かろう。それもまた楽しみである。

さて、昨日の夕方からはライブであった。普段の黒田さんとのサックスデュオにブルースシンガーの須和龍一さんをゲストで迎えてのブルースライブ。今日はブルースばっかりやるぞ、と私も意気込んで行ったのは良かったが、実はライブ会場のグリニッジハウスに到着した時には、私は前日からの風邪をさらにこじらせて、38度前後の熱を発していた。意識も朦朧としたので、近くの薬局へ行って風邪薬と栄養ドリンクを購入し、それをライブ前に一気に服用した。気の持ちよう、というものはある。始まってしまえば何とかなるもので、予定の2ステージ分を終えるまでは、さしてしんどい思いもなく、ブルースを楽しんだ。終わった瞬間に、緊張の糸が切れたのか体力の限界が来たのかはわからないが、どっと体中をだるさが襲った。ああ、もう終わったからあとは家に帰って寝ればいいや。そう思っていた。

その刹那、私は自分の耳を疑った。アンコール?何だそれは?カンボジアの遺跡アンコールワットではないだろうな。そう、それはもう何曲かやって欲しい、というお客様からのありがたい声だ。毎回アンコールを言われる訳でもない私は、言われればとても嬉しくなる。たとえどんなに体調が悪かろうと、だ。やろうとも、やらいでか、死ぬわけじゃなし。そんな事を考えて、私はアンコールをやった。その後、セッションをしたい、というお客さんもいた。当然、やった。いや、やらせて頂いた。ふらふらであったが、こういう時には(いささかナルシスティックなのかも知れないが)独特の充実感がある。帰ってからは泥のように眠った。

そして今日、当然風邪は完治していない。今日はもう家に引きこもることを決めた。風邪を治す為に。そして無駄な一日を過ごすために。

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2006年4月22日 (土)

二日越しの痛み、そして風邪

ちょっと最近このブログの存在を忘れたりしていた。まあ、そんなものなのだけれど。そしてふと思い出したので更新しようと思い立った。

昨日ぐらいから風邪をいひいた。熱は大した事はないが、咳がひどい。あとは体中が痛い、という事に苛まれている。体が痛いのは、風邪のせいだけではないかもしれない。

最近、五年ぶりぐらいに柔道を(というよりも運動そのものが五年ぶりぐらいなのだが)した。やはり十年以上慣れ親しんだスポーツなので、楽しい事は大いに楽しかったのだが、体にかかる負担を忘れていた。そう、私の体はありえないほどにひ弱になっているのだった。

柔道の翌日は太ももやらふくらはぎやら腰やら、下半身にたくさんの筋肉痛があった。やはり足腰が大事だ、そこまで練習中に酷使したからこそ筋肉痛も来るのだな、そう考えていた。そして、きちんと翌日に筋肉痛が来るとは、私の体もまだ若いのだ、そう思っていた。体が衰えてくると、筋肉痛も二日後や三日後に来るなどとはよく聞く話だ。

そして二日後の今日、起きると背中と肩に鈍痛が走った。なるほど、下半身は即日に筋肉痛がやって来ても、上半身は二日後か。よし、きちんと認めることにしよう。私は衰えている。

少し体を若返らせるためにも定期的な運動を、などと気持ちの悪い健康志向になってきているが、いや、とにかく運動をしなくては。私の今の体力はきっと小学校三年生ぐらいと良い勝負だろうから。そして大事なのは、気持ちの若さだ。気に入らなかったら怒ろう。嬉しかったら照れよう。物分かりの良い、立派な人になんてなるもんか。よし、その意気だ。

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2006年4月19日 (水)

ラッキーの長広舌

唐突だが、私の好きな「ゴドーを待ちながら」の中のラッキーの長広舌という科白を紹介する。今日はこれだけ。たまには趣向を変える、という名目で楽をするのだ。それでは。

「前提としてポアンソンとワットマンの最近の土木工事によって提起された白い髭の人格的かかかか神の時かか間と空間の外における存在を認めるならばその神的無感覚その神的無恐怖その神的失語症の高みからやがてわかるであろうがなぜかわからぬ多少の例外を除いてまさにわれわれを愛し神的ミランダのごとくやがてわかるであろうがなぜかわからぬ苦しみの中に火の中にある人々とともに苦悩しそしてその火その炎がたとえわずかでももう少し続くならばそしてなんびともそれに疑いをさしはさみ得ずついには天の梁に火をつけるであろうつまり地獄を焼く火は今日なお時にかくも青く静かに断続的でありながらしかもなお歓迎すべきである静けさをもってかくも静かなる天上に至るが即断すべきでないのであって他方テスチュとコナールの未完成なしかしプレスのベルヌの人体そくそく測定学アカカカカデミー賞を得た研究の結果として人間の行う計算につきまとう誤謬の可能性を除けば決定的に証明されたのはテスチュとコナールの未完成未完成の研究の結果として証明明明されたのは以下の以下のつまりなぜかわからぬが即断すべきないのであってポワソンとワットマンの工事の結果同様に明瞭にかくも明瞭になったのはファルトフとベルシェの労作に照らして未完成未完成なぜかわからぬテスチュとコナール未完成未完成現れるのはすなわち人間は反対意見に反して人間はプレスのテスチュとコナールの人間は結局要約すれば要約された人間は結局栄養と廃物除去の進渉にもかかわらず痩せつつあり同時に平行的になぜかわからぬが肉体訓練の発達スポーツの実施にもかかわらず例えば例えばテニスフットボール競争自転車競走水泳乗馬航空欲望テニスカモジースケート氷上とローラーとテニス航空スポーツ冬のスポーツ夏の秋の秋のテニスローンテニス芝の上の杉の上のクレイの航空テニス地上ホッケー水中空中ペニシリンとその代用薬品要するに繰り返せば同時に平行的になぜかわからぬが矮小化し繰り返せばテニス航空九ホールあるいは十八ホールのゴルフ氷上テニスにもかかわらず要するになぜかわからぬがセーヌ県セーネワーズ県セーネマルヌ県マルネワーズ県においてつまり同時に平行的になぜかわからぬが痩せ細り繰り返せばワーズマルヌ要するにヴォルテールの死以来ノルマンディーにおいては一人頭の丸損分が裸で目盛りを甘くして四捨五入してほぼ平均約一人頭二インチ当たり百グラムであり要するになぜかわからぬが結局問題でないのは事実がそこにあるからで他方考えてみればさらに重大なことではあるがさらに重大なことが導き出されシュタインヴェークとペーターマンの進行中の実験に照らし照らしてみるとさらに重大なことが導き出されたというのはさらに重大なことがシュタインヴェークとピーターマンの中絶した実験に照らし照らしてみると野でも山でも海岸でも小川の岸でも水辺でも火のそばでも空気は同じで地球はすなわち空気と地球はきびしい寒気によって空気と地球はきびしい寒気によって残念ながらその第七紀において石のすみかとなりエーテルと地球と海は深いところも石のすみかとなりきびしい寒気が海上にも地上にも空中にも繰り返せばなぜかわからぬがテニスにもかかわらず事実がそこにありなぜかわからぬが繰り返せば先へ行けば要するに結局残念ながら先へいけば石のすみかなんぴともそれに疑いをさしはさみ得ず繰り返せばしかし即断すべきでないのであって繰り返せば頭蓋骨は同時に平行的に矮小化しなぜかわからぬがテニスにもかかわらず先へいけば髭炎涙石はかくも青くかくも静かで残念ながら頭蓋骨頭蓋骨頭蓋骨頭蓋骨ノルマンディーにおいてはテニスにもかかわらず頭蓋骨残念ながら石コナールコナール・・・・・・(乱闘。ラッキーはなおいくらかうめく)テニス!・・・・・・石!・・・・・・かくも静かな!・・・・・・コナール!・・・・・・未完成!・・・・・・」(『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット 安堂信也 高橋康也 訳より)

という事です。厳密には意味があるのかもしれませんが、基本的には無意味です。いいねえ、この無意味な言葉の羅列。意味ありげに意味の無い事いうよりは、ここまで気持ち良く無意味だというのが素晴らしい。

そして、これだけの無意味な言葉の羅列を、傍らに本を置きながらパソコンでカタカタ写していると、何とも言いようのないハイな状態になります。今、若干ハイです。

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2006年4月17日 (月)

実録!

「実録!お水の花道!」みたいな番組が好きだ。好きだ、というよりもやっているとついつい見てしまう。やはり好きなのか・・・今日も家に帰ってきたらホストの密着番組がやっていた。ついつい見てしまった。いやあ、すごいねえ、と思いながら。

すごく他人事で見てしまうのだけれど、嵌っていってる客もさることながら、それに対して野心を燃やし売上を上げていくホストやホステス達の御伽噺のようなサクセスストーリーは、何だか不健全だなあと思いながらも、見てはいけないようなシーンを見ている楽しさで見続けてしまう。

「ホストに使う客の金は、客の寂しさのバロメーター」みたいな安っぽいナレーションも好きだ。

見ながら色々考えて、一つ至った結論は、「この手の番組は東スポやフライデー的な面白さがある」という事だ。即ち、これを楽しく見れる私の神経は、やはり低俗だという事になるのだろう。いやあ、すいません。でも、東スポ面白いですよねえ。大きなニュースがあっても、平気で一面はプロレスだったりするもんなあ。

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2006年4月15日 (土)

闇夜の桜

祇園での深夜の演奏を終えて、先程帰宅した。今日も楽しかった。良かった良かった。

演奏が始まる前に、店内ではレイ・チャールズのCDがかかっていた。ジョージア・オン・マイ・マインド、ヒット・ザ・ロード・ジャック、ホワッドアイセイ(このブログのタイトルは、ここから取ったのだ)、アイキャントストップラビングユー。もう何かの挑戦のように受け取ってしまい、今日の最初の三曲は、ヒット・ザ・ロード・ジャック、ハレルヤ・アイ・ラブ・ハー・ソー、ジョージア・オン・マイ・マインドだった。レイより素晴らしく出来たかって?それは愚問だ。一生かかっても多分無理だ。He is a genious. ではない。He is ‘the’ genious. だ。

帰り道、賀茂川沿いの道を原付でとろとろ走りながら、闇夜の桜を見た。ライトアップされた桜なんて大嫌いだが、街灯に薄く照らされた夜の桜は好きだ。それも、じっくり見るんじゃなくて、バイクとかバスとか電車とか、何か乗り物に乗りながら、ほんの一瞬見るのが好きだ。花見をしている奴らは騒ぎたいだけなんだろうな。私もただただ騒ぎたいだけの時はあるのだもの。その気持ちはよくわかる。

今は、寝酒のいいちこwithパソコンだ。ダメなコンボだ。自宅にインターネットを繋いだ事をうっすら後悔している。

これからこのブログも更新頻度がしばらく上がるかもしれない。買いたての玩具って、何かしらいじりたくなるものね。今回は、早く飽きる事を祈っている。

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2006年4月14日 (金)

IT革命

来たね、IT革命。我が家にインターネットが導入された。

引きこもってやる。

いや、だめだ、書を捨てよ、町に出よう、だ。

町に出よう、そして再び憂鬱になろう。

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2006年4月13日 (木)

伝えたかったこと

本日、かなりの長文です。でも最後まで読んでくれると嬉しいです。いつもとは少し違うテンションで、一生懸命書いてみました。書くのに少し躊躇や逡巡もありましたが、読み通して頂ければ幸いです。

先日、我が家の郵便ポストに一枚の葉書が投函されていた。

差出人の名前に谷口慶氏とあった。悪意も何もなく書くが、私は彼の事をさほどよくは知らない。勿論、直接の面識は一度ある。それは今から三年前、2003年の五月だったと記憶しているが、私の友人である谷口昭良(たにぐちあきら)氏の「お別れ会」の時であった。

谷口アキラ、詳しくはサイドのリンクから見て頂きたいが、彼は2003年の四月に28歳の若さでこの世を去った。不思議なもので、もうそれから三年の月日が流れている。私に葉書を送ってくれた谷口慶氏は、アキラ氏の兄であり、その葉書の内容はアキラ氏の写真展の案内であった。

私とアキラ氏との出会いは、2001年、インドの地においてであった。確かデリーの安宿であったと思う。私はヒマラヤから下山してきた所で、彼はチベットからインドに入国して間もない時であった。私がよく覚えているのは、彼がその時にチベットの事を熱っぽく語っていた事だ。チベットという地域は中国の中でもはっきりと独立した文化や国民性を持っており、そこを漢民族の枠にあてはめて考えようとするのは無理がある、中国は一刻も早くチベット自治区を独立させるべきだ、と彼は言っていたと思う。ふむふむ、と私は興味深く聞いた後、私が訪れたばかりのヒマラヤ山中での話をすると、彼もまた興味深そうにその話を聞いた。インドを旅している日本人同士の間でよく見られる光景、といえばまさしくその通りだが、私はその時何とも楽しい時を過ごしたのを覚えている。

その後私はデリーから東へ、バラナシという町へと足を進め、彼は西へ、インド・パキスタン間の国境の町アムリトサルへと向かう為、そこで別れた。

日本人に限らず、旅先で多くのツーリストと出会ったが、その後今日に至っても付き合いがある人間というのは実はごく少数だ。タイミングのズレみたいな物もあるのかも知れないが、次第に疎遠になった人間もいるし、旅先で出会ってそれっきり、そういう人も多くいる。小学校や中学校、高校、大学と幾人の人との出会いがあったにも関わらず、未だに付き合いを維持する人間がそのごく数パーセントの人間にしか満たないのとよく似ている。結局自分とウマの合う人間とでも言えばいいのだろうか、そういう人間をおこがましくも無意識下で私は選別しているのかもしれない。誰とでも分け隔てなく親しく付き合える能力、そういった物が私には著しく欠如しているのだろう。難儀である。こういった所はとても難儀である。稀にその能力を有した人に出会う事があるが、その時には私はほんの少しの反感と大いなる憧憬の念によってその人の「特殊能力」を眺める事となる。本当に「その能力」を有する人はそれを決して打算では行わないのだが、まるっきり私の中に欠如した能力であるために私はどこか打算ではないか、と疑ったりもする。嫌らしい性格だ。

閑話休題(便利な言葉だ)。アキラ氏は、私が日本に帰ってからも付き合いのあった数少ない人の一人であった。日本に帰ってからわかった事なのだが、彼が住んでいたのは千葉の船橋という所、当時私の住んでいたのは東京の小岩。同じ総武線沿線で5~6駅間ほどしか離れていない極めて近い所に住んでいた事が判明したのだ。小岩の私の実家で酒を飲んだり、小岩の安い呑み屋で酒を飲んだり、船橋の呑み屋で酒を飲んだり、とにかくよく一緒に酒を飲んだ。一番はっきりと覚えているのは、一緒に下北沢に彼の知り合いの劇団の芝居を見に行って、帰りに終電がなくなるほどの時間まで駅前の「餃子の王将」でビールを山ほど飲みながらうだうだと話していた事だ。下らない話もたくさんした。それぞれの自分の過去の話や、最近のニュースの話、女の話、それから自分の将来の話。彼は写真を撮っていたし、私はもうその時にはピアノを弾いていた。彼は写真家になりたいと言い、私はピアノ弾きになりたいと言っていた。酒を飲む約束を交わした時に、彼はよく最近撮った自分の写真などを現像して持って来る事があった。私は写真の事は全くの門外漢であったにも関わらず、「この写真は好きだ」とか「この写真はいまいちピンと来ない」とか偉そうな事を言っていた。お前のような素人の意見を簡単に無視してたらダメなんだ、と彼は言っていたが、私はその当時、いや、別に無視してもいいんじゃねえかな、好き勝手言ってる訳だし、と思っていた。酔っ払った時に一度私が「俺、三十歳までにきちんとしたピアノ弾きになるから、そしたらアキラさんの写真と一緒にライブしましょうね」と言っていたのを彼がその後からかうように何度か酒の席で持ち出して、少し私は赤面していたりもした。でも、彼は「いつかやりたいな、俺もたくさん良い写真撮れるようになるよ」と言ってくれていた。あと数年で私も三十歳になるが、まだきちんとしたピアニストにはなっていない。何とかせねば。

東京で私が暮らしていた時に、そんなやり取りをしていたのが、彼との最後の思い出だ。しばらくしてから私が京都に移り住んで、直接会うことはなくなった。メールのやり取りはたまにあった。その彼からの最後のメールは、今からタイに行って写真を撮ってくる、という内容の物だった。前に進んでいるのかどうかはわからないが、取り敢えず「動いて」いるな、私はそう思った。彼はその旅先のタイで死んだ。交通事故だったそうだ。

その日、携帯電話が鳴って、液晶上に見慣れない電話番号が通知された。電話口に出たのは女性だった。「谷口アキラを知っているか?」と問われた。知っている、私は答えた。女性はアキラ氏の従姉妹だそうで、彼が旅先のタイで亡くなった事を私に伝えてくれた。私はその女性にどういう受け答えをしたのかよく覚えていない。とても奇妙な感覚に襲われたのははっきりと覚えているのだが。

その電話があったのは木曜日であった。何故曜日を覚えているかと言えば、木曜日はピアノのレッスンの日であったからだ。私は何が何やらわからぬまま、師匠市川修の元へ向かった。いつものようにレッスンは進んだが、師匠が私のちょっとした異変に気付き「お前、何かあったか?」と私に尋ねた。私は「はい、まだ現実味がないんですが」と前置きしてその電話の事を話した。私は師匠には何の衒いもなく、すっと自分の弱さを見せてしまっていた。受け入れる懐の深さ、師匠の深さは海よりも深かった。私の話を聞くと、師匠は困ったような表情をして、「よし、レッスンやめよう」と言っておもむろにピアノの横の台所に立つと、ラーメンをゆで始めた。変な事はしっかり覚えているが、それはサッポロ一番塩ラーメンだった。卵を二つ入れてくれて、「食え」と言って私に渡してくれた。それが市川修という人の「優しさ」の表現方法だった。彼は安直な慰めの言葉などよりも多くの優しさを、いつも私に与えてくれた。ラーメンを啜っている私の頭をポンポンと叩いて「腹が空いたら余計に悲しくなる、食え」と言ってくれた。私は涙と鼻水をどばどばと流しながらラーメンを啜った。私が食べ終わると、師匠は「帰って寝ろ、少し休め」と言った。私はその通りにした。

レッスンから家に帰ると、本当に少し疲れていたので私はしばらく昼寝をした。起きたのは夕方の七時ぐらいであったと思う。起きると、私の携帯電話の着信を告げるランプが光っていた。着信の欄には「市川修携帯」と入っていた。留守番電話が残っており、それを再生すると師匠の独特のゆったりとした口調で、私を励ますメッセージが残っていた。ありがたいな、市川修という師匠に出会えて私は本当に幸せだ、そんな事を考えていた時に、再度携帯電話が鳴った。今度は知らない番号からだった。

番号の始めが市外局番の075で始まっていたので、京都のどこかからの電話であったのはわかった。私が電話を取ると、電話口からは師匠の声が聞こえた。

―何してた?

―寝てました。すいません、電話もらってたみたいで。留守番電話聞きました。ありがとうございます。

―今セサモ(河原町三条にある小さなレストラン。師匠は木曜日にその店でソロ・ピアノの演奏をしていた)からかけてるんやけどな、今からセサモに来んか?今日演奏してんねん。

―あ、行きます。今から出ます。

―よし、待ってるで。

そんなやり取りだったと思う。私は簡単に身支度を済ませてセサモに向かった。何で行ったのかは覚えていない。バスだったかも知れないし、自転車だったかも知れない。とにかく私はセサモに着いた。

店内に入ると、師匠が壊れかけたアップライトのピアノに向かっていた。師匠は私が来た事に気付くと、ピアノを弾きながらニヤっと私に微笑みかけた。私はビールを注文して師匠のピアノの音色に耳を傾けた。サスティンのペダルも壊れ、打鍵のハンマーもきちんと返ってこないようなオンボロのピアノから出る音とは思えない、とても澄んだ音色のピアノを私は聴いていた。

その刹那、師匠が立ち上がって大声で叫んだ。

俺が今からその男を天国に送り届けてやる!

弾き始めたのは「On the sunny side of the street」。心配事はドアの所に置いてきて、明るい表通りを歩こうぜ。そんな歌詞の付いたジャズのスタンダードナンバーだ。師匠がどういう意図でその曲を演奏してくれたのかはわからない。けれど、その日のその演奏は、とてもハッピーで、暖かく、激しく、優しく、そしてとても悲しかった。

帰り際にも師匠と言葉を交わしたと思う。だがその内容を私はよく覚えていない。ただ、「On the sunny side of the street」を弾いてくれていた師匠の姿、そしてその演奏は、三年経った今でも、ついさっき見た事聴いた事のようにはっきりと覚えている。そしてその演奏は、私の心の一番深い所に突き刺さり、未だに忘れ得ぬ(きっと生涯忘れ得ぬ)最も大事な演奏となっているのだ。

今となっては師匠市川修も友谷口昭良もこの世にはいない。まだまだ不思議な事で、未熟な私はその事を全て受け入れられていない。口先だけで何かを言うのは簡単だ。だからこそ、彼らの分も、とか彼らの事を糧にこれからも頑張って、なんて言葉は吐きたくはない。そんな言葉を吐けるほど私は大それた人間ではないし、何だか言ってしまうと私が白けてしまう。私は彼らと出会えた事に感謝をしたい。そして彼らがいつも私の傍に居てくれている事に。

最後になった。長文を読んでくれた方には感謝します。私の駄文などより一番書きたかったのは、冒頭に書いた先日やって来た葉書の事。件の谷口アキラ氏の写真展が横浜で開催されます。詳細は以下。

  谷口アキラ写真展「Giving EXPRESSIONⅡ-伝えたかったことー」

期間:2006年4月21日(金)~5月7日(日)

場所:JICA横浜 横浜市中区新港2-3-1

交通手段:桜木町駅 汽車道、ワールドポーターズ、サークルウォークを通り徒歩15分

馬車道駅(みなとみらい線)4番万国橋出口からワールドポーターズ方向に徒歩10分

自動車:首都高速神奈川線みなとみらいICから5分

開館時間=10:00~18:00(入館は17:30まで)

入場無料

詳細: http://homepage3.nifty.com/tanitani55/

横浜なので、私は今回見に行けるかどうかわからないのですが、行ければいいな、と思っています。関東方面にお住まいの人は、是非足を運んでみて下さい。

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2006年4月11日 (火)

ザオリクはいらない

今日は京都は一日中雨だそうだ。私は今日はMOJO-WESTでのライブだというのに。雨が降っていたらお客さんの足が遠のくではないか。個人的に雨が大変好きな私も、ライブの日の雨だけは憂鬱になる。お客さんが来なかったら演奏は出来ないのだ。魚は水の中でなくては生きていけないのだよ、わかるかね。

昨日、ふと昔やっていた「ドラゴンクエスト」というゲームの事を思い出した。主人公のレベルが上がっていくに従って、様々な事が出来るようになっていく、というゲームだ。

たけしはレベルがあがった!

きらいなひとのまえでもえがおがつくれるようになった!

ひとをきずつけないうそはそんなにつみではないということがわかった!

おのれのむりょくさをあらためてじかくした!

みたいな感じですか。まあ、全て嘘ですが。

じいしきがひだいした!

これじゃレベル下がってんじゃん。

最後に。私がかけてほしい魔法は、ザキだ。3回ぐらい連続でかけて頂きたい。

まあ、暇な人は今日モジョウェストに来てくださいな。精一杯やっとりますので。本日から新メンバーです。

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2006年4月10日 (月)

木村充揮の30周年

一昨日の話だ。

家に帰ってテレビをまわしたら、NHKに西原理恵子さんが出ていた。また、最も不釣合いなテレビ局に出ているな、なんて思ったりもしたが、そこは西原理恵子大先生、NHKにはこれまた不釣合いな発言をしてくれていた。それでもまだまだ甘い。本当のサイバラはこんなものではない、私はそんな事を考えていた。サイバラ(呼び捨てにしたらいけないが、私なりの尊敬を込めて)については詳しくはサイドのリンクを。私の最も好きな漫画家だ。

そのままNHKを付けっぱなしにしていたら、「始まってしまった」のが木村充揮サマのライブ。ああ、もうテレビに釘付けだ。それは仕方のない事なのだ。彼についてもやはり詳しくはサイドのリンクを。憂歌団以来、音楽生活30周年の記念ライブの模様であった。いいのだろうか、こんなに素晴らしい時をNHKなぞに提供されてしまって。私はNHKの受信料など生まれてこの方払った事は一度もないというのに。言ってしまったな。NHKの職員の方がこの文章を見ていない事を願う。

大好きな木村充揮だけでも十二分に嬉しいというのに、ゲストがまた凄かった。たくさん出ていたのだが、覚えているだけで、ムッシュかまやつ、泉谷しげる、加川良、橘いずみ、甲本ヒロト、金子マリ、Char、近藤房之助、Begin、大西ユカリetc.etc. バックのミュージシャンもハンパではなかった。サックスの梅津和時、片山広明を始め、トロンボーンの大迫明...(全て順不同、敬称略、並びにリストとしては大いに不完全)。どこを見ても私の憧れの大好きなミュージシャン達で溢れ返っていた。一人一人に対する私の思い入れを「簡単に」書いても、一人あたり原稿用紙5枚分は書ける。たとえば「私とザ・ブルー・ハーツ」という題なら。ううむ、書きたい事は山ほどある、とめどなく溢れ出す。「夕暮れ」という歌が好きだ、とか。だから敢えて書かない。とにかくみんな素晴らしくカッコイイミュージシャンだ。こんなイベントがやっていたなんて知らなかった。生で見たら間違いなくションベンをちびっていただろうな。それでも生で見たかった。最高のライブだ。

去年、香里園という町の音楽祭で幸運にも木村氏と共演する機会を得た。素晴らしいゲストだらけのこのライブの中心にいた木村充揮という天使のようなヨッパライのオッサン、いや、ダミ声の悪魔、何でもいいや、とにかく木村充揮サマと私はほんの30分ばかりだが、その時に共に「音楽」という物を介して楽しみを共有した体験を持つ事が出来たという事に私はひどく誇らしい気持ちを感じ、そして同時に惨めな気持ちにもなった。私はその共演、それっきりだ。テレビの中に写っていた木村充揮バンドにはきちんとピアニストがいた。私の100倍ぐらい上手かったし、100倍ぐらい良いピアノを弾くピアニストだった。失礼な事に彼の名前は忘れた。しかし、いや、やはり、何から何まで私は彼に負けていた。当たり前と言えば当たり前の事なのだが、おこがましくも私はその事がたまらなく悔しかった。木村バンドのピアニストのイスに座りたい、とても無茶な欲だが、心の底からそう思った。

荒唐無稽でも何でも構わない。10年後、とはいかなくとも、20年後、30年後でも構わない、木村バンドのピアニストの座を虎視眈々と狙い続ける事にしよう。私が木村バンドのピアニストになるに相応しく成長を遂げるまで、元気に木村充揮氏には音楽を続けて頂きたい。歌い続けて頂きたい。そんなに時間はない。絶対無理!と思った人は、保護動物を見守るような暖かい目で私を見てやって下さい。「ああ、あの人はかわいそうな人なんだ」と。

自分の悔しさみたいな感情を赤裸々に書くのは、本当に恥ずかしいな、とここまで書き終わって思った。あまりそういう事を書くのは控えていこう、と思う。でももう書き上がっててしまったし、これも仕方がない事なのだ。

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2006年4月 8日 (土)

鉄橋の上でコギトが脱構築

数日前の話になるが、失くしていた私の携帯電話が岡山駅で発見された。京都駅の遺失物係にこちらから連絡をとってみた所、そう言われた。

あの青い空の波の音がきこえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

谷川俊太郎の「かなしみ」という詩。「遺失物係」で思い出した。あまり本件とは関係深くない。私が落とした落し物は、決して「とんでもない物」ではないからだ。単なる携帯電話だ。「とんでもないおとし物」は他の場所でしている。幾度も幾度も。幾つも幾つも。

携帯電話が岡山駅から送り届けられた。勿論着払いの郵便物だ。しかし、それは既に誰かと伝達し、通信する為の道具ではなくなっている。鉄とプラスチックの塊に過ぎない物へと変貌を遂げていたのだ。「カイジ」という漫画に描かれていた「伝達とは伝えたら達すること、通信とは通じると信じること」という言葉を思い出した。私たち人間の意志の疎通はかくも儚い。

デカルトのコギト主義は、全ての存在を懐疑した。自らの存在すらも。果たして私は本当に「在る」のか?と。そして至った結論は、「私の存在を懐疑している私ははっきりと‘在る’」という所か。私も不勉強かつ思い付きで書いているので、違っているならば詳しい方は訂正願いたい。我思うゆえに我在り、コギト・エルゴ・スムだったかな?何でもいいよ。

私と同じく最早無能となった携帯電話を眺めて、私はその「カイジ」の事やデカルトの事を思い出した。私が今まで行ってきた伝達や通信の不確かさ、そしてその不確かな伝達・通信を懐疑する私自身の存在を。私は携帯電話によって誰かと通信していた。しかしそれは本当の通信だったのか?

Aという真理に含まれるBという反論。脱構築。ジャック・デリダ。いや、多分違うな。難しい単語を並べたいだけだ。今日はそんな気分なのだ。本物の知識人がこんな文章を読んだら鼻で笑われる。

難しい単語をただ単に羅列したいだけの気分と、言ってはいけない事を言いたいだけの気分が、今日は私の中に同居しているので、最後にあまり言ってはいけない事を書こう。あまり意味を求めないで頂きたい。

巨人と阪神は負けてしまえ。

そんなに言ってはいけない事でもなかったかな・・・

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2006年4月 6日 (木)

永源遥は引退らしい。

やはり、かなり更新が手間取っている。と、いうよりも通信そのものがかなり手間取っている。クソッたれ、携帯電話め。もうすぐ我が家には家庭用電話回線とインターネットがやってくるのだ。そうなれば、携帯電話なんてもう用なしだ。中に入っている電話帳のデータだけどこかに移し変えたら、是非曲がらない方向に携帯電話を折りたたんでみたい。楽しいだろうなぁ。やっぱり無理かなぁ。

本日は高槻JKカフェでライブ。今から帰ります。今日はとても簡単な更新。書くことがない訳ではない。書く能力に欠けているだけだ。

昨日テレビで見た素敵な発言。

「僕の脳みそが大英博物館に保存されたらいいのに。」

もう一つ、プロレスの面白い対戦カード。

「とうめい人間vsとうめい人間」

想像力の限界まで行ってしまおう。

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2006年4月 4日 (火)

何もない春

家で一人で酒を飲んでしまった。しかも深酒だ。起きた時の時間の経過にうんざりとさせられた。

雨が降っていた。何はなくとも外に出よう、そう思ってふらふらと外を散歩してから近所のネットカフェにやってきてこうしてパソコンを触っている。死んだらいいのに。

先ほどまで店内でナットキングコールの「スターダスト」が流れていた。柔らかい声だ。けれどそれは不必要に甘い訳ではない。ほっとさせられる、そんな声だ。久しぶりに聴いた。素晴らしい。私は全く素晴らしくないのに。

昨夜酔っ払いながら、何故か私は吉田拓郎のCDを聴いていた。たまに聴きたくなるから家に置いてある。いつでも聴けるように。吉田拓郎の歌には私がとても好きな歌がいくつもあるのだが、その中で今日は「襟裳岬」という歌を紹介したい。書くべき事もさして無いのだから。

歌詞を書いているのは岡本おさみという作詞家だ。私は彼の書く詞が好きだ。どこか屈折していて、けれど諦観は抱けない人間の矮小さを描き出す事の多い彼の世界には、一時期とても夢中にさせられた。

「襟裳岬」の中にこんな一節がある。私の一番好きな部分だ。

「日々の暮らしは嫌でもやってくるけど

静かに笑ってしまおう

いじける事だけが生きる事だと

飼い慣らしすぎたので

身構えながら話すなんて

ああ、臆病なんだよね」

やり切れない切なさが今にも伝わってくる、素晴らしい歌詞だ。生活とは罪深いものなのか。私はそんなことを自問する。罪深くもある。それは決して間違いではない。そして間違いでもある。正しい事と間違った事は正反対の事ではないのだ。同じ事なのだ。そう考えると少しだけ復活する。

ちょっと長文を書くテンションではないのでこの辺で。外はまだ雨が降っている。今日は傘を持っているけれど、今から傘をささずに家に帰りたい。雨が私の頭上に降り注いで、惨めに濡れていく自分を想像するとわくわくする。でも家に帰ったら、濡れていない服に着替えるんだぜ。寒かったらストーブにあたるんだぜ。そんなもんか?そんなもんだ。

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2006年4月 3日 (月)

喋っているのは誰だ?

インターネットもない、携帯電話もない生活は、いささかの不便とそれなりの解放感を私にもたらしてくれる。このブログの更新が滞りがちになるのは、それを考えると致し方ない。

3月30日に京都に戻って来てから、30日、31日、4月1日と三日連続のライブであった。ライブは毎日やっても楽しい。楽しいだけではいけない、それはわかっているつもりだ。けれど、私自身が楽しくないのであれば、間違いなくお客さんも楽しくなかろう。そう思わないとやっていけない。

昨夜見たテレビ番組について少し。

「爆笑問題のススメ」という日本テレビの番組。お笑いコンビの爆笑問題の二人と、タレントの眞鍋かをりがホスト役となり、毎回文筆業に関わる人々をゲストに招いて会話を繰り広げるという趣旨の番組だ。私が個人的に一番印象に残っているのは、故中島らも氏を招いた回だ。若干躁気味なテンションであったらも氏の支離滅裂な言動(ex:「殺したい奴がいるので300万円を俺にくれ」etc.)に、パーソナリティ達がドン引きしているのを見て私はゲラゲラ笑っていた。自作の歌「いいんだぜ」を歌った際には、その歌詞のあまりに過激な言葉遣いに、放送禁止コードを表す「ピー」が乱発されていたのに私は納得がいかなかったのも覚えている。らも氏は、きっとそうなる事をわかっていて歌ったのだろうな。愛情の表現の仕方を制限するのは、本当にナンセンスだ。筒井康隆や中島らものようなブラックユーモアのセンスの持ち主たちは、私たちの想像以上に余計な戦いを強いられているのかもしれない。

この「爆笑問題のススメ」、私は悪く言うつもりはない。そもそもらも氏の扱いに関しては、この番組の責任ではなく、究極的な所、テレビというメディアの持つ矛盾性がそもそもの問題なのだ。立川談志氏がテレビに出る時などは、家元はいつも意図的にそのテレビというメディアの矛盾点を突く。それを笑いにすら変えてしまうのが、家元の素晴らしい点でもあるのだが。いずれにせよ、私はこの「爆笑問題のススメ」を毎回楽しく見ていたのだ。以前にも少し書いたことがあるが、日曜日の夜は「情熱大陸」、「世界遺産」、「NNNドキュメント」、「爆笑問題のススメ」、と面白い番組が集中して放送されるので、私は毎週楽しみにしているのだから。踊らされているんだぜ。

その「爆笑問題のススメ」が、昨日で最終回であった。最終回のゲストは、何とこれまでホストを務めていた太田光、爆笑問題の「大きい方」だ。テーマは「私の人生を変えた3冊の本」、ほう、一体どんな本を挙げるのか、と私は見守った。

驚愕であった。太田光が挙げた3冊の本は、「晩年(太宰治)」、「銀河鉄道の夜(宮澤賢治)」、「フラニーとゾーイー(J.D.サリンジャー)」である。私が仮に3冊挙げるとするならば、これと全く同じになる可能性は薄いにしても、上記3冊の本はどれかしら入るであろう。おこがましいのを承知で書くが、太田光と私の感性は驚くほど似ていたのだ。

太宰治の「人間失格」を読んだ時、読者は大雑把に二つの種類に分けられるという。一つは、主人公の葉蔵、或いは作者である太宰に嫌悪感を抱くタイプ、もう一つは「ここに描かれているのは自分だ」と感じるタイプである、と。私は後者であった。そして太田もそうであったと言う。賢治の「銀河鉄道の夜」やサリンジャーの「フラニーとゾーイー」に関する解釈や認識を、かなりの熱を込めて語る太田光を見ながら、私は何とも奇妙な感覚に襲われた。太田の口から発せられている筈の言葉は、まるでブラウン管越しの「こちら側」にいる私の口から発せられている言葉のように感じられたのだ。

今喋っているのは誰だ?

本当に奇妙な事に、私はそう思ったのだ。「テレビは下らん!」と思いながら、抗えない力によりついついテレビを見てしまう私である。本当は好きなんだろうな。長年テレビを見てきて、昨夜のような体験は初めてであった。

最後に太田が自分にとって一番特別な本を挙げた。「タイタンの妖女」、カート・ヴォネガットというアメリカの作家の作品だ。私はこの作品を読んだ事がなかった。にも関わらず、その本に私は魅かれた。我が家の本棚の中から「アメリカ文学史」のような本を引っ張り出してきて調べてみると、SF小説であるという。何かの宿命のように出会う本というのは、人生の中でそんなに多くはないだろう。しかし或いはこの「タイタンの妖女」は、私に宿命を感じさせるやも知れない、そんな事をふと思った。

私が宿命的に出会った本の一つに、坂口安吾の「桜の森の満開の下」という小説がある。よく勘違いしている人がいるが、桜の木の下に死体が埋まっているという話は梶井基次郎の「桜の木の下で」だ。安吾は、桜の木の下に来ると気が狂ってしまう、という話だ。この小説の事を、ほんのり開花し始めた加茂川の桜を見ながら、思った。

大分話にまとまりを欠いたが、今日は何日かぶりに更新したので、満足しています。それではまた。

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