弾くべきか、弾かざるべきか
今日は久しぶりに本腰入れてピアノの練習。
今日気付いた事は、人間の指というのはなかなかに独立して動かす事が困難だ、という事。何を今更、とお思いの人も多いかとは思うが、私は恥ずかしながら今日気付いた。これはつまり、小指を動かすならば小指だけを動かす、という事。当たり前の事じゃねえか、と思った人は、左手(右手でも可)の手のひらを広げて小指だけを動かしてみてほしい。一緒につられて薬指やら中指やら動いてませんか?本当に難しいのだ。
今までもその困難は味わってきたが、何となく最近は、ちょっとは「指を動かす事」に慣れて来たかな、という驕りがどこかにあった。改めて自らの指の動きに神経を集中しながら練習をしてみると、いかに自分の運指が杜撰かという事に気付かされる羽目になったのだ。ピアノを弾く人は、小さい頃からクラシックピアノをやっていた人が多いので、そういった方々は既にこの困難を克服している人が多いかも知れない。
しかし私のような柔道家上がりのピアニストは、そんな当たり前の事で悩まされてしまう。柔道家上がりのピアニストなんて、まあ日本に十人もいないだろうが。教師あがりの採種者(たねや)など置いてやりたくないといふ。これは宮澤賢治の「住居」という詩の一部だ。あまり関係はない。柔道家あがりのピアニストなどバンドに雇ってやりたくないといふ。ああ、困った。ちなみにこの後は、「ひるもはだしで酒を呑み、眼をうるませたとしよりたち」と続く。ブルーズだ。賢治の詩にはブルーズが溢れている。
小さい頃からピアノを弾いていた人がもしこの文章を読んでいたら、私の質問に答えて頂けませんか?きちんと指が独立して動くようになってきたと実感したのは、始めてから何年目ぐらいの事ですか?ちなみに私は大体丸六年ほどピアノを弾いております。「好きこそものの」の精神でやっておりますが、一向に上手くなりません。自分のあまりの才能の無さに、たまに死にたくなります。死んだらいいのに、という事で死ぬまでやろうとは決めておりますが。
指が動く事、それ自体は素晴らしい事ではない、と私は考えている。けれど、指が動かない事によって、自分の表現しようとするものが満足に表現し切れないのであれば、それは論外だ。自らの表現の幅を助ける為の「技術」。そういう物を身に付けられたら素晴らしいのになぁ、そう思います。下手くそは下手くそなりに悩みます。
To play or not to play, that is the problem.
Fair is foul, and foul is fair.
シェイクスピアのクソッタレが。
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コメント
俺の場合、廣木の師匠のところで習って5年、ようやく師匠のカリキュラムの中での「基本練習」が終わりました。「基本練習」というのは、音階を無視した運指練習のことです。卒業、ということはようやくこれから「ドレミ」に入れるということに過ぎず、むろんのことながら、「基本練習」が終わってわけでもない、ということで・・・。
子供は別にして、大人になってから練習し始めた人間にとっては、5年やってようやくスタートライン、というのが妥当なところではないでしょうか。モンクは40越えてからも基本練習やってたらしいし。
投稿: torii | 2006年3月29日 (水) 20時05分
toriiさんへ
五年でようやくスタートラインですか…わかっちゃいた事ですけど芸事(げいごと)っていうのは時間かかりますね。地味な練習にどれだけ辛抱して時間を費やせるか、それが色々な芸事を身に付けていく上での共通した条件になるのかな、と僕は思っている所もあります。しんどい道ですが、これからもお互い精進しましょうね。
投稿: 福島剛 | 2006年3月31日 (金) 23時17分