1月31日
1月31日。今日の事を私は一生忘れない。
話のネタにするべき事でもないし、自分の中でもまだきちんと整理しきれていないから、詳しくは書かない。
ただ、決して忘れまいというだけ。その為にもここに記しておく。
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1月31日。今日の事を私は一生忘れない。
話のネタにするべき事でもないし、自分の中でもまだきちんと整理しきれていないから、詳しくは書かない。
ただ、決して忘れまいというだけ。その為にもここに記しておく。
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酒を飲みながら、J.D.サリンジャーの『The Catcher in the Rye』をパラパラとめくる。多くの人が、自分だけの「青春の一冊」を持っているだろうが、『The Catcher in the Rye』は私の「青春の一冊」の中の一つだ。そして「青春の一冊」には必ずと言っていいほど、何か恥ずかしいような思いが付き纏う。ドストエフスキーの『地下室の手記』やらニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』やらカミュの『異邦人』やら夏目漱石の『こころ』やら坂口安吾の『堕落論』やら太宰治の『人間失格』やら…列挙するだけで恥ずかしくなって来た。でも認めざるをえない。私はこういった作品群が「とても」好きだったし、これらの書物に強い影響を受けた。露悪趣味で、もっと正直に白状しよう。高校生の時分、毎年6月19日には学校をサボって三鷹の禅林寺に行っていた。何をしに行ってたかは秘密だ。気になる人はインターネットででも何でも調べてほしい。まあ下らない事をしに行ってたのだ。全くもって大した事ではない。思い出したお陰で(さらにそれを文章にしているお陰で)顔が熱くなってきた。酒のせいでも風邪のせいでもない。きっと津島修治 と森林太郎のせいだ。余は石見の国人、森林太郎として死なんとす。だったっけかな、クソッタレが。
中でも『The Catcher in the Rye』は特に顔から火が出そうなほどに恥ずかしい一作だ。高校生の時に好きだった女の子に「面白いから読んでみなよ」と教えてもらった作品だ。そして読んだ。面白かった、ああ面白かったよ。面白かったついでにここからは『The Catcher in the Rye』の主人公ホールデン・コールフィールド風口調(by野崎孝)で書いてみる。
その時のぼくときたら、その女の子に気に入られたい気持ちと、人から知らない本を紹介された気まずさ(本の話をされた時に「あ、それ読んだ事あるよ」と言えないのはぼくにとってはちょっとばかり屈辱だったんだ、低能だねえ)で一生懸命読んだんだ。何回も何回も。お陰で今じゃ冒頭部分ぐらいならそらで言えるようになったよ。日本語だったら「もし君がほんとにこの話を聞きたいんならだな…」だし、英語だったら“If you really want to hear about it…”だったと思う。間違ってるかも知れないけれど、そんな事はどうだっていいんだ。今ぼくが言いたいのは、いかにぼくが『The Catcher in the Rye』を何回も読んだ事があるかっていう事だからね。理由はクソみたいに下らない理由だったけれど、そんな風にして読んだって訳さ。馬鹿げてることは知ってるよ。それで肝心かなめの話なんだが、何回も『The Catcher in the Rye』を読んで、結局その女の子と仲良くなれたかって言うと、それはさっぱりだった。多分その女の子はぼくにあんまり興味がなかったんだと思う。そういう事もあるよ、こればっかりは仕方がないよね。でも、その女の子と すっかり疎遠になってしまってからも、ぼくは『The Catcher in the Rye』をさらに何回も読み返したんだな。何て言うか、もうその女の子の事はあんまり関係なくて、「本当に」『The Catcher in the Rye』が好きになっていったのかも知れない。一回ページをめくってしまえば、ぼくはいつだってホールデンに気持ちを映し換える事が出来たし、ストラドレーターやアクリーにだってなれた。きみは不思議な事に思うかも知れないけれど『The Catcher in the Rye』の中には「ぼく」がいたんだ、紛れもなく。わかるかい、親友?
最後だけ『The Great Gatzby』になってしまった。ちなみに『ギャッツビー』は私には全然面白さがわからない。
『The Catcher in the Rye』の事を書くと、上記のような理由からとんでもなく私は恥ずかしくなってしまうのだが、書いてみた。今日は取り立てて他に書く事もなかったので。
今数えてみた所、私は『The Catcher in the Rye』を全部で四冊持っている。白水社から出ている野崎孝訳の文庫本とハードカバー(どちらもタイトルは『ライ麦畑でつかまえて』)、そして同じく白水社から出ている村上春樹訳の物、それとリトルブラウン社から出ている英文のペーパーバック、計四冊だ。英文のペーパーバックは、単語のメモがちょこちょこしてあるぐらいだが、野崎孝訳の文庫本はびっしりと書き込みやら傍線が引かれている。最後にかつて私が傍線を引いた箇所を紹介して終わりにしたい。こんな下らない文章ですが、読んでくれた方の中で「ちょっと『ライ麦』、(また)読んでみようかな」と思って下さった方がいれば幸いです。結構面白いですよ、久々に読んでも。
「雨が急に馬鹿みたいに降りだした。全く、バケツをひっくり返したように、という降り方だったねえ。(中略)すっかりずぶ濡れになったな。(中略)でもとにかく、ずぶ濡れになっちまった。しかし、僕は平気だった。フィービーがぐるぐる回りつづけてるのを見ながら、突然、とても幸福な気持になったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。なぜだか、それはわかんない。ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。」
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また風邪をひいた。まだ一月なのに今年二回目だ。不健康を憎むべきか、不摂生を恥じるべきか、それが問題だ。
今日のTBSは、普段から私の大好きな「情熱大陸」がさして面白くなかった代わりに、その後の「世界遺産」が非常に面白かった。インドのアーグラーの近くにあるムガール朝の遺産、ファテープル・スィークリーが特集されていた。タージ・マハールもそうだが、ムガール朝の建造物には、すさまじいまでの完成度の裏に、何とも言えない寂しさみたいな物があるように私には感じられる。今日の「世界遺産」は、その何とも言えない寂しさを僅かながらも伝えようとしていた意志が見えたので、見ている私もニヤッとなった、という訳だ。
普段なら日曜日は、情熱大陸→世界遺産→スポーツニュース→NNNドキュメント→爆笑問題のススメ、とTVをハシゴする日なのだが、体調があまりに悪いので今日は世界遺産で力尽きました。おやすみなさい。
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午前四時過ぎ。暗い部屋に帰って来た。
今日は祇園のお店で深夜の演奏をして来た。帰りになか卯に寄って牛丼を食べた。みそ汁がなめこ入りになっていたのに少々感動して、みそ汁も頼んでしまった。無論、私のいささか過度な期待は裏切られたが。
原付を走らせて四条から北に向かっていると、今出川通り辺りから雨が幾分ぱらつき出した。鞍馬口を過ぎて、北大路通りに差し掛かる頃には、雨は霙混じりの雪になっていた。こんな時にバイクはダイレクトに天候の変化を感じさせられる。ふと「ザ・グレート・ギャッツビー」の最後に近いシーンで引用された聖書の言葉が浮かんだ。「幸いなるかな…」か。或いは幸いかも知れないな。そんなことを考えながら家路に着いた。
と、ここまでが昨日の晩に書いた所まで。私は前にも書いた事はあるが、自宅にインターネットの環境が無い為、携帯電話からこのブログを更新している。昨夜は布団に入って携帯電話をいじって文章を書いていたら、そのまま寝てしまったという訳だ。故に変な所で文章が切れた。ご勘弁願いたい。折角少し書いたのだし、続きをと思い、再び布団の中から書いている。
今日はグリニッジハウスというライブハウスでライブをしていた。計2ステージやって来たが、2ステージ目はリラックスしながら、けれどハートを込めて出来たので楽しかった。1ステージ目は、ちょっと「良い」とはお世辞にも言えなかったかな。固かったし、何というか「上の空」みたいな感じになってしまっていた。いかんいかん。演奏中には「今目の前で何が起きているか」という事を敏感に察知する能力が要求される。まずは全体をきちんと見渡してから。その為には集中しなくてはならない。そう、集中だ。「上の空」では絶対にいけないのだ。
ライブ後は、山科に住んでいる先輩のもとを尋ねて、一緒に夕飯を食べて帰って来た。今日も案の定眠くなって来たので、中途半端な所ではあるが、寝てしまう前に更新する。
皆さま、おやすみなさい。
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寝る前に、大好きな「ゴドーを待ちながら」をペラペラとめくっていた。サミュエル・ベケットの作品だ。何度読み返しても、相も変わらずというか何というか、非常にナンセンスで不条理な作品だ。
よく知らない人の為に、この「ゴドーを待ちながら」を極めて簡単にだが説明しておく。大雑把なジャンル分けをすると、演劇の脚本だ。そして、「劇」であるにも関わらず、舞台上では「劇的な事」は何一つ起こらない、というのがこの作品の特異な点だ。
故にストーリーはシンプルそのもの。ヴラジーミル(ディディ)とエストラゴン(ゴゴ)という二人の男が、木の下で「ゴドー(Godot)」という何者かを待っている。待っている間に交わされる会話は、滑稽で無意味な物ばかり。二日待ってもゴドーはやって来ないし、二人もまたゴドーを待ち続ける。ゴドーは依然として何者かもまるでわからない。 という所で幕は降りる。何も起こらず、誰も来ない、というのがこの作品の極めて簡単なあらすじだ。「何じゃそりゃ?そんなもん面白いのか?」と思った人、多分正常です。でもこれが面白いんですよ、たまらなく。
色々話し出すと長くなるし、私もしんどくなるのでやめておく。言語の可能性と信頼性?現実の反復性?いやいや、またの機会に。
そんな「ゴドーを待ちながら」の、ぐっと私の感性にはまる様な上演を観た事がないなあ、とふと思った。その大きな要因は、これまでに観た際の役者やスタッフが悪かったのだろうと思う。コミカルさが足りずに冷笑的になり過ぎてしまっていたり、或いは閉塞的な状況が切実に感じられなかったり。とても残念だ。脚本自体は出鱈目なぐらいにスウィングしているのだから。もちろん、演じる側の人間からしてみたら随分と厄介な作品なのかも知れないが。
そこで、深夜に一人で妄想する。どんな役者が出ていたら、この「ゴドーを待ちながら」は面白くなるだろうか、と。私が「そいつは是非観たい」となるだろうか、と。ちなみに私は海外の役者の事はほとんど知らないので、日本人の役者に話は限定する。また、私は演劇マニアでもなければ専門家でもないので、名前を挙げる役者はかなり知名度の高い人達になるが、所詮深夜の慰み程度の妄想なので、そこはご勘弁頂きたい。
まず、途中で出て来る犬のラッキーには竹中直人がいいな。これは間違いなくはまると思う。長広舌を「笑いながら怒る人」みたいな感じでやったら面白いんじゃないだろうか。 ラッキーの飼い主、ポッツォには、最初近藤正臣の名前がふと浮かんだが、ここでは鹿賀丈史なんてどうだろう。威厳の崩壊、彼ならどう演じるか。 やはり途中で少しだけ出て来る男の子、これが配役に迷う所だ。一瞬脳裏に藤原竜也の名前がよぎったが、何だかしっくりこない。かといって、他に誰がいる?うーん……となってしまう。非生産的な妄想で煩悶するのもなかなかに馬鹿げているので、ここは藤原竜也(仮)としておこう。 さて主役の二人だが、これは意外なほどにあっさり決まった。ヴラジーミルに柄本明、エストラゴンにイッセー尾形、これで間違いない。どちらも私の贔屓の役者なので、当然点の付け方は甘くなるが、きっと絶妙なやりとりを見せてくれるに違いない。
ではまとめてみよう。もし私が「ゴドーを待ちながら」の配役を任されたら、以下のようにする。
ヴラジーミル――柄本明
エストラゴン――イッセー尾形
ポッツォ――鹿賀丈史
ラッキー――竹中直人
男の子――藤原竜也(仮)
我ながら素晴らしい配役だ。出来上がって惚れ惚れとする。もしこの面子で「ゴドーを待ちながら」をやっていたら、15000円までならポンと出して見たい。20000円ならば、かなり迷うんだろうが結局出しそうだ。30000円以上であったら……何か犯罪を犯してしまいそうな気がするし、考えるのをよそう。
という事で、眠れぬ夜はこうして一人で下らない妄想に耽ると楽しいのです。頭の中が空っぽになって、少しずつ眠くなってきます。
眠い。また次回。
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簡単になってしまいましたが、2月分のライブ情報更新しました。プロフィールの欄から見れます。2月はあんまりライブしません。これといって理由もないのですが。
あとは久しぶりにパソコンから覗いたら、コメントをいくつか書いて頂いてるのを確認しました。読んでいてくれている皆さん、本当にありがとうございます。
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午前三時半、一仕事終えて一杯飲っている。もちろん、いいちこと緑茶のリアル負け犬コンボ。普段と若干異なるのは、1リットル100円の紙パックの緑茶をコンビニで買ってきた事くらいか、お茶っ葉を切らしてしまったので家でお茶が淹れられなかったのだ。
つまみが今日はちょっと良い。韓国海苔だ。知り合いから頂いた。口に入れた瞬間にむせ返るほどの磯の香りがする。旨い。決して塩辛過ぎない絶妙な塩味が焼酎をいざなう。
焼酎、海苔、焼酎、海苔、焼酎、焼酎、海苔、焼酎。
破壊と創造の無限の輪廻すら私の脳裏をよぎる。昼の光に夜の闇の深さがわかるものか。人差し指に少し付いた塩をペロリと舐めるのさえ旨い。
最近色々な事があるが、今日はとても嬉しい事があった。午前一時過ぎ、今から約三時間前に最も古い友人から電話が掛かって来た。川崎マサクニ。私は容赦ない、実名を出すぞ。ファーストネームをカタカナにしているから大丈夫だ。今も東京、私の故郷小岩で暮らす、物心ついた頃ぐらいからの幼馴染みだ。彼は大変だった。中学生の時は私の喧嘩を止めるのは彼の役目だったのだから。野球部で体力があるからという理由と、私と親しいからという理由で。私ならそんな役割は一回につき一万円もらえたとしても御免蒙る。有り余る体力と、訳の分からない鬱屈としたエネルギーの溜まった中学生同士の喧嘩など、考えただけでぞっとする。中学生は大人しく砂浜あたりを全力疾走でもしながら「セックスしてぇぇぇぇ!」かなんか叫んでいればいいのだ。人様に迷惑をかけてはいけない。 一緒にインドを旅した事もある。私がインド行きの切符を買いに旅行代理店に行くまさにその日、彼が私に「仕事を辞めた」と電話を掛けて来たので、「じゃあ今日ちょっと錦糸町(旅行代理店があった)付き合ってくれ。通帳とパスポート持ってな」と言って、そのまま半ば拉致のように彼をインドに同行させた。乗換えで二時間ほど滞在したバンコクのドン・ムアン空港で「俺、何で知らねえ間に外国いるんだよ、意味わかんねえよ」と言って笑っていた彼を思い出す。確かあの時私は機内サービスの酒を飲み過ぎて、既に吐きそうになっていたな。もっとも旅を始めて一か月だか二か月だか後に、私は彼に突然「俺はちょっとパキスタン行ってくるな」と言って、バラナシという街に彼を置き去りにしてしまったのだが。その数か月後に彼とはタイで再開した。男の子は何だかんだで丈夫に出来ている物なのだ。
さあ、そんな彼からの深夜の電話は、「子供産まれた」。カミさんがハラボテというのはもちろん知っていたが、今日産まれたか。死ぬ命があれば産まれる命がある。そしてもう少し、いや、まだまだ生き延びなければならない命もある。そうだろう?その通り。
私はすぐに「男か、女か」と聞いた。彼は「男だ」と答えた。「名前は決めてるのか」と聞いた。「大体」と答えた。いくつか考えてあって、あとは顔を見て決めるつもりだったらしい。また彼は出産に立ち会ったらしく、男という生き物の無力さを痛感していたようだ。「何にも出来ねえし、男はダメだなあ」彼は笑いながら言った。その通り。私も男はダメだと思う。もちろんそれ以上にダメな女も、ごく稀にいるが。 私が彼に「春に東京に少しだけ帰る。お前のガキの顔も見たい」と言うと、彼は少しだけ興奮した声で「楽しみにしてるからまた連絡をくれ」と言った。多分、他の人にも今すぐ伝えたいだろう事が声の調子から分かったので、少しだけ私の近況報告をして電話を切った。
マサクニ、おめでとう。今度またヤマを交えて小岩で飲もう。内蔵が裏返るぐらいまで飲むぞ。勢い余って深夜の喫茶店のガラスを割ってしまうぐらいまで飲むぞ。覚悟しとけよ。
私は四枚目の韓国海苔を食べ終えた所だ。大丈夫だ、百枚あるのだから。焼酎も随分と飲んだ。今はちょうど朝の五時だ。もうすぐ夜が明ける。そうだ、必ず夜は明ける。明るい街角で、また再び会えるのだ。誰もがその日を待っている。
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どうでもいい事なんですが、このブログを見てる人の中で、音楽、特にピアノに興味ある人に質問です。 久石穣と坂本龍一、どちらが好きですか?演奏者、作曲家、トータルで見た時です。 私は明らかに久石穣が好きです。ふと深夜に気になりました。
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大文字の山が見える。私は数ある京都の祭の中でも、特に大文字焼きという祭が嫌いだ。明確な理由こそ答え難いが、何とも俗っぽい印象が拭えない。京都に暮らし始めてもうすぐ丸八年になるが、その印象は未だに変わらない。祇園祭も嫌いだ。そもそも祭という物それ自体が私は嫌いなのかもしれない。
だが唯一、祭囃子だけは例外なく私の心を捉える。色鮮やかな山車の上で鳴り響く笛の音や太鼓の響きには、その華やかさの裏に何とも言えない寂しさが湛えられている。華やかさより寂しさに心を惹かれる時、私は自らが日本人である事を考えさせられる。皮肉なものだ。
眺め始めて五日目になる屋上からの風景が、次第に視界に馴染んで来た。祈ることの不毛さ、けれど祈らずにいられない自らの不甲斐無さを私は噛みしめている。
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今日も京都では雨が降っている。心持ちか、優しい雨に感じる。
数年前に出演した新開地音楽祭という所から「また出てみませんか?」という主旨のチラシが送られて来ていた。出てみようかな。
今日は栃東が負けたらしい。今場所初の黒星だ。ここからどう踏ん張るかだろう。
雨はひょっとしたら雪になるかも知れない。そうしたらまた散歩に出よう。
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細かい事は書きませんが、私の周りが今、色々と大変です。私にもほんの少しだけ手伝える事もあって、昨日から忙しいです。という事で、ブログの更新も滞る事もあると思います。普段読んでくれている方、すいません。 何のこっちゃわからないかも知れませんが、事態が好転する事を、皆様、祈ってくれたら幸いです。 それではまた。きちんと書けるのは落ち着いてからかな。
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神様、助けて下さい。僕にとっても他の人にとっても、かけがえのない、大切な人なんです。助けて下さい。お願いします。助けて下さい。
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始まってしまった。何がって大相撲。これが始まってしまうと、夕方五時から六時ぐらいまでの間が身動きが取れなくなる。家にいなかった時は、夜のスポーツニュースに釘付けだ。本日の琴欧州は?栃東は?そして朝青龍は?ええ、もう大好きなんですよ、大相撲。ちなみに一番好きな力士は前述の栃東。頑張れ、足立区の星!
さてさて今日は私の音楽活動の紹介の一環として、黒田雅之氏という人を紹介したい。無論本人の了承はとっていない。まあ、いいだろ。どうせ私が自分の日常をこういった形で綴っていったら、好むと好まざるとに関わらず、名前を出さずにはいかないのだから。 彼はサックス吹きだ。このブログの横のリンク集の紹介文でも書いているが、私のライブ活動の大半を一緒に行っている。 まず初めに、極めて大雑把に全てのサックス吹きを「やかましいサックス吹き」と「静かなサックス吹き」とに二分した時、彼は間違いなく「やかましいサックス吹き」だ。これは本当に良い意味でも悪い意味でも、なのだが。もちろん私も良い意味でも悪い意味でも、どちらかと言えば「やかましいピアノ弾き」なのでお互い様なのだけれど。良く言えば情熱的、悪く言えば子供染みていてお騒がせ、という所だろうか。 私が彼と共に音楽をやろうと思うのには様々な理由があるが、一番には「楽しいから」というのがある。彼は私よりも(確か)五歳年上だが、音楽的には対等な立場でやらせてもらっている。つまり、彼のサックスに対して私がケチをつける事はきちんと許されているし、彼が私のピアノに対してケチをつける事も当然許されている、という事だ。だから楽しい。これが当たり前のようで、なかなか当たり前ではないのだ。人間というのは利己的に出来ているから、自分が認めていない人間からの駄目出しは素直に受け入れがたい。という事は、こうした音楽的なパートナーに対しては、或る程度尊敬の念みたいな物がお互いの根底にないと、駄目出しは単に下らない喧嘩の原因に堕し、双方の向上の為にはならない。特にきちんとした額のお金が動いていない我々のようなアマチュアのミュージシャンの世界ではそれは尚更だ。甘い考え方だ、と思わなくもないが、こうした過程を経ずにシビアなプロの思考回路に辿り着く方が私には不自然に思える。 要するに、現時点では私自身が彼の演奏に敬意を抱いているからこそ彼に対して正直に意見出来るし、その逆もまた同様という事だ。そう考えると、良い形で共にやっているな、と感じる。感謝している。 彼とは、演奏以外の部分での付き合いも大分ある。結構仲は良いんだ、これが。そしてこれが面白い事なのだが、演奏以外の部分では明らかに上下関係がある。しょっちゅう私は彼に怒られている。怒られる内容の多くはお酒の事や私の社会性の無さに関する事が多い。記憶をなくすまで飲むな、とか嫌いな人間や嫌いな場における立ち振る舞い方とか、小学生が怒られるような内容で「指導」される。非常に耳が痛い事が多いので、私も「はい…はい…」と素直に聞く。また彼の奥さんは久美子さんと言うのだが、彼女にもよくお説教される。「剛、ちょっとここに座りなさい」みたいな感じで。本当にいつも家族ぐるみで世話になっている。 私の血のつながった家族は東京に住んでいるが、血のつながっていない家族も何人か京都に住んでいて、彼らはその中の一家族だ。私にとってはとても大切な人達だ。 そんな黒田さんにも悪い所がある。パソコンの話を始めると話が長くなる所だ。「なんとかプロキシが…」とか「サーバーがどうでこうで…」とか言うと、さっぱりわからないので「黒田さん、日本語を喋って下さい」と言う事にしている。昨日も「僕、インターネット繋ごうと思ってるんですけどねえ」とか言ってしまったものだから、そこから30分ぐらい「サルでもわかるインターネット講座」が始まってしまった。さっぱりわからなかったが。 ちゅう事で、彼とのステージが今月もたくさんありますので、興味のある方は見に来て下さいね。
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モジョウエスト、終わりました。帰って来ました。今回一緒に出た対バンの「赤提灯」というバンドはなかなかに見ていて楽しめるバンドでした。エネルギーがあって。 肝心の我々の出来は………うーん、55点…何だか「荒く」なってしまったかな。やっぱり音楽は猥雑なだけでは駄目だ。美しさがないと。もちろん美しいだけでも駄目なんだけど。ちなみに見た目的な美しさはもう諦めてるので、そこは突っ込まないで下さい。でも、美しく、猥雑に。そんなジャズを目指して、明日から再び精進します。死なずに済んだら、生き続けるんです。
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自分が一歩も先へ進んでないような気になる事がたまにある。まるでルームランナーの上を延々と走っているような気持ちになる事が。今、まさしくそう思っている。きっとすんなり入眠出来ないからなのだろうが。 そんな時は何とも言えず不安な気持ちで押し潰されそうになる。そうかそうか、そいつは大袈裟な。 私はここじゃないどこかへ行かなくてはならない。けれど私はここにいる。早くしろ、時間がない。 そんな声がどこかから聞こえてくると、本当に発狂したくなる。無論“したくなる”だけだ。実際にはしない。そこまで私は繊細に出来てない。とても忙しくて逃げ出したい時に「これでブッ倒れでもしたら周りにちょっとは心配してもらえるし、何もしなくてよくなるな」と考えている時は、決して倒れたりしないのと一緒だ。そもそも私は倒れた事などない。いや、一度だけあるか。18歳ぐらいの時に、食べ過ぎで倒れた事がある。私は疲れている訳でもないし、ましてや渇望などしていない。げっぷしている。 午前五時三十分。街はまだ眠っている。かすかに遠くで車のブレーキ音が聞こえた。彼(或いは彼女)は何を思い、ブレーキを踏んでいたのだろう。知った事ではない。拳を握る。握った拳の隙間から、また一つ何かがこぼれ落ちる。 明日になれば何かが変わる、そんな儚い望みは抱くまい。明日はこのままだ。今がそのままリアルなのだ。うじうじと貧窮する己に唾を吐きかけねばなるまい。 「反吐が出るな。」頭蓋骨の中でこだまするように私の脳が喋る。反吐が出る。へどがでる。ヘドガデル。何を考えている?その次はお決まりの自嘲がやってくるのか?阿呆臭い。オメデタイ。 内的独白。文字に直すといささか滑稽になって面白いので書いた。読んで不愉快になった人、ごめんなさい。言葉の上では謝っておきますが、本心からは謝ってません。
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明日は北山のモジョウエストでのライブなので、今日は相方の黒田さんとリハーサルをしていた。今回も気負わずにリラックスしながら、ただひたすらにスイング出来る事を目標にしながらやりたい。 その後はバイト。何も変わった事のない日です。でも、最近毎日定期的に文章を書いていてこんな事を思う。結局みんなそんなに珍しくてドラマティックな日常を送っている訳ではないのだから、当たり前の日常を、どれだけデコレイトして(或いはデフォルメして)書けるか、というのもなかなかに大事な事の一つかな、と。 私の尊敬する漫画家である西原理恵子さんは、編集者に「書く事がない」と愚痴った所、「それを描くのがアンタの仕事でしょう」と言われたと何かで描いていた。つまり、ネタがないというのは、書けない理由にはならない、と。 私にはもちろん「仕事で書いてる訳ではない」というエクスキューズが残されているが、あまり容易にそこに逃げ込むのは嫌だなあ… という訳で、簡潔ですが「何も書く事がない」という事について一本書けました。良かった良かった。 また明日。
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変更があった、と書きましたので、こっちにも書いておきます。
まず、今回に限り対バンが入りました。スケジュール(プロフィールの所から見れます)にも書いてありますが、「AUX」さんというバンドと、「赤ちょうちん」さんというバンドです。私も直接見たことはないのですが、「AUX」さんはアコースティック弾き語りのバンド、との事。「赤ちょうちん」さんはオーティス・レディング系のリズム&ブルースのバンドだそうです。私も良い物が見れそうだな、と楽しみにしています。
出演順ですが、一組目が「AUX」さん、二組目が我々福島剛と黒田雅之、三組目が「赤ちょうちん」さんです。時間は、PM7:00スタートですので、我々は八時ぐらいから九時ぐらいまでの出演となります。
ミュージックチャージは、当初1000円、と書いていましたが、カンパ制となりましたので、お気軽にどうぞ。
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二日酔いで、夕方になってもまだ吐いたりするぐらい夕べは飲んでしまった。気持ち悪い。でも、楽しかった。親しい友人の結婚パーティだったのだ。三次会ぐらいまで行ったのは覚えてる。後はほとんど覚えてない。お笑い芸人を目指してる若い男の子がいて、そいつと意気投合して「俺の方が面白い!」とか「いや、俺の方が面白いっすよ!」とか言いながらゲラゲラ笑ってたのは微かに覚えてる。まあいいや。松岡さん、アヤちゃん、結婚おめでとう。 という事で今日は、ずーっとうだうだした休日です。急きょ明後日のライブの事で変更があったので、お店に行ってその打ち合わせをしてきたのが、今日した事の唯一だ、今の所。その変更した事は、今日か明日、またブログにも書きます。
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明日(正確には今日)一月七日は、友人のM岡氏の結婚パーティだ。私も呼んで頂いている。 みんなで酒を飲んで「わーい、おめでとう!」というのが会の主旨なのだが、途中でバンド演奏を頼まれている。 結婚式やパーティの演奏の仕事というのは、しょっちゅうではないがたまに頼まれる。汚い話だが大概はギャラが良い。 だが、明日はノーギャラだ。しかしね、ふふん、困った事に(?)こういう親しい人のお祝いでノーギャラで演奏する、これ以上に私のテンションを上げさせる物はない。プロ根性が無いとか、偽善だとか、綺麗事・戯言に受け止って笑う人は笑ってくれ。言っとくが、金じゃねえもんだってあるんだ。これはマブだぜ。私は浪速節の根性を決して忘れたくはない。 明日に備えて、ナット・キング・コールの「L―O―V―E」と長渕剛の「乾杯」を譜面に起こした。Is it BETA?ああ、ベタさ。でもいいんだ。ベタでも何でも、私の好きな人が私(或いは私達)の演奏を聞いて少しでも笑ってくれれば。 ちゅう事で寝るのが遅くなってしまった。明日は頑張るぞ!
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雪が降ったらいいな、と書いたら昨夜は本当に雪が降った。何となく降りそうな予感はあったのだけれど、まさか本当に降るとは。 暗くなってから散歩に出た。もちろん体調は悪いんだし、家で大人しく寝てるのがベストなのだが、どうしても三十分ばかり、傘をさして表を歩きたかった。
街灯の明りがいつもより明るく見えて、家を出てからの見慣れた風景がいささか奇異に映る。雪が光を跳ね返すからかもしれない。ふと頭上に目をやると、そこには漆黒の空が浮かび、そこからこぼれ落ちるかのように雪が舞っている。決して一定ではない、不規則で不完全なリズムで、虚空の雪は地面に触れる。雪は自らの白き肢体を保とうとするが、やがてそれは元の水へと戻る。君達がその白く美しい姿を保っていられるのは、ほんの刹那の事なのだ。私は靴の裏で彼らを踏み躙りながら歩みを進める。 時折、近くを車の通り過ぎる音が聞こえる。一様にさほどスピードを出している訳ではないのが、音でわかる。それは、こんな雪の晩にスピードを出して車を運転するのが危険だから、果たしてそれだけの理由なのだろうか。私は知らない。 気がつくと私は賀茂川の傍らにいた。眼前に激しい水の流れが見える。その水流の上を舞う雪の姿は、依然として緩やかであり何かためらいがちだ。遮られ、限定されていた視界が急に開けたかのようだ。 傘をたたむ。幾分熱を帯びた私の頭上に雪が落ちるのが冷たくて心地良い。そのままじっと一分ばかり、目を閉じる。それまでよりも更に深い暗闇が私を包むのと同時に、雪の放つ微かな音が、輪郭をほんの少しだけ明確にする。私の体に雪が触れる時、微かだが確かに音がしている事を、私はそこで初めて知る。 一人遊びに飽きてきて、帰る事を決意する。帰り道はわかるか?わかる。「もと来た道を戻ればいいのだ」 そうだ、もと来た道を辿れば、私は決して迷う事はない。 帰りに缶ビールを買おうとしたら、午後11時をまわっていて自動販売機が使えなかった。まあ良い、取り分け飲みたかった訳でもない。ならば家に帰って暖かい緑茶を飲もう。そう考えていた。
雪はいつの間にか止んでいた。 無論、私の頭上の雪は全て融けていた。
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さっきバイト先に電話した。「すいません、休みます」と。 熱は一向に下がる気配を見せないし、私の体調は昨日に比べてまるで良くなっている訳ではない。 バイトを休むと言った後には、小さな敗北感と大きな背徳感が残る。私はよく高校をサボっていたが、その時の感じに少し似ている。 という事で病は私に至福の暇をもたらしたので、その暇は出来る限り無駄に使いたい。私はよく一日が35時間あれば、と思うのだが、無駄をカットしていけば一日は24時間で事足りる。問題は私が無駄をカットする気がさらさらない、という所にある。
前回の文章で矢野顯子について少し書いた。続きを少し。
彼女の歌う歌でとても好きな曲が何曲かあって、その内の一つを紹介したい。著作権の問題は無視する。 加川良(「教訓」なんかを歌ってた人ですね)が作った「愛について」という歌だ。以下、歌詞を紹介する。
「愛について」
壁に二つの影が映ってる
子と母の二つの影が映ってる
二人は自転車をこいで
今家に帰る所
子は母に話しながら
母は子に頷きながら
子に父はなく
母に夫はいない
父も夫もいない夜道を
二人はゴムまりのように弾んでいく
僕には愛が二つのゴムまりになったように見える
父のいない子は愛について考え続ける
夫のいない母も愛について考え続ける
愛について考える事で二人は結ばれている
道端である日
星のように遠いはずの男とすれ違う
愛の事を考えながら
子と母と男は道端ですれ違う
星のように遠い場所から
男はその夜
子と母に電話をかける
愛の事を考えながら
子と母は生きて行く
愛の事を考えながら
男もまた生きて行く
遠く離れた場所にいて
どちらも愛について考えている
「つかまえた」と壁に映った子の影が言う
「つかまえた」と壁に映った母の影が言う
子と母は自転車をこいで
家へ帰って行く
「つかまえた」と呟く二つの影を
道端の壁の上に残して
愛の事を考えながら
子と母は生きて行く
愛の事を考えながら
男もまた生きて行く
遠く離れた場所にいて
どちらも愛について考えている
と、いう事だ。矢野顯子という人には日本の近代詩を歌い上げる、類い稀なる才能がある、と私は感じる。私の好きな近代詩人の一人に辻征夫(つじゆきお)という詩人がいるが、彼の代表作の一つである「かぜのひきかた」にも矢野顯子がメロディーを付けて歌っているらしい。残念ながら私はそれを聴いた事はないのだけれど。 いずれにせよ、この「愛について」には、都会の一角の冷ややかな孤独と、その孤独ゆえに繋がりを求める切ない人間同士の姿が、「愛」という言葉のもとに描き出されている。佳作である。こういった世界観は、はっきり言って好みである。故に点のつけ方はだいぶ甘くなる。許してほしい。 壁に残された二つの影は、そこで何を思ったんでしょうね。
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今日は雨か雪が降ってほしいな。
さっきの文章を書いたのは、夜11時ぐらい。今が大体午前2時前。また二時間ほど寝て起きてしまった。最近、朝まで熟睡する事が出来ない。 目が覚めてしまうとなかなか再び寝付けないので、そういう時は本を読むかお酒を飲むか音楽を聴くか、どれかだ。最近はそこに今やっているようにブログに文章を書く、という行為も加わって来ている。 そういう時は、本も音楽もなるべく意識的にライトな物を選ぶようにしている。本だったら例えば村上春樹の小説とか幸田文のエッセイとか、或いは「TOEICテストにでる順英単語」とか。(ちなみに私はTOEICという英語の試験は受けた事がない。難しいのかどうかすら知らない)音楽だったら矢野顯子とか中島みゆきとか吉田拓郎とか。 ここで一つ浮上して来る問題としては彼ら(つまり村上春樹や中島みゆきたち)が真に「ライト」な文化、或いはメッセージを発しているのか否かという事だが、私の導く結論としては彼らは決して「ライト」ではない。むしろ「相当にヘビー」な部類に入ると思う。
あれ、それじゃ何か矛盾してないか?先程私は「ライトな物を」と言ったではないか?いやいや、これは決して矛盾していないのだ。
彼らの文化なりメッセージなりを受けとる私の問題があるのだ。私は彼らの表現手段を単純に「他人事」として捉えている。つまり、表現している(或いは表現しきった)その対象には大いなる憧憬と嫉妬を抱き、あまつさえいささかのシンパシーも抱くが、そこに至る過程というものは、私にとっては随分と遠い出来事のように思えて、そこまでを深く追求する気にはなれない。HowよりもWhatに興味がある、と言ったらわかりやすいだろうか。 ひょっとしたら似たような事を以前にも書いたような気がしているが、今はこのまま続けてみたい(笑)
例えば今夜のこのブログ更新のお供はIWハーパーのオン・ザ・ロックと矢野顯子だ。矢野顯子は、私と形の上では同じピアノ弾きだが、私は彼女のピアノ演奏それ自体にはさほどインスピレーションを刺激される訳ではない。彼女がピアノを弾く事にはやはり或る種「必然的な」印象を覚えるが、それは所詮手段の一つでしかない。彼女の真に素晴らしい点は、その手段を用いて「確かな何か」を現実世界へと還元し、具象化した事にある。そういった意味では、彼女の感性を過不足なくサポートした、手段としてのピアノ演奏は本当にすごいと思うのだけれど。
語弊を恐れずに言うと、私は自らを「ジャズの人間だ」と自覚している所があるので、それ以外の音楽はいくらヘビーでエグかろうと、のほほんと聴ける部分があるのだ。だからこそ、それらを私は「ライト」と評した。 差別化を計っているつもりはあまりないが、私は自分の事を「どんな音楽でもどんな文学でも雑食的に受け入れる人間」だとは思っていない。もっと意固地で、狭い世界の住人だ。しかし、下らないと私が思う物は、批判を覚悟の上で「下らない」と言う必要があると思っている。それも、よく見たり聴いたりせずに、頭ごなしに独断と偏見によって「下らない」と一言に切って捨てる必要が。 全ての人が物分かりが良くなってしまって、何でもかんでも「これはいい、あれもいい」と褒めちぎってしまっては、本当に素晴らしい物が埋もれてしまう。本当に素晴らしい物はそんなにたくさんはないのだ。世の中の大半の物は退屈だ。
はっきり言うと、私は全然素晴らしくない。下らない。
IWハーパーはたった一杯しか飲んでいない。決して酔うような量ではない。けれど、久しぶりに訳のわからないくらいのハイテンションで書きまくってしまった。風邪薬とウィスキーのコンボがまずかったのだろうか。書き始めたのは二時前だったが、今は三時前だ。少しすっきりした。
矢野顯子の音楽がまだ後ろで小さな音で鳴っている。再び安らかに眠りにつけるかわからないが、今はしばらくこの独特の世界に身を沈める事にする。
安心な僕らは旅に出ようね
か。何となくわかるような気もする。よくわかるような気もする。全くわからないような気もする。そんなもんか。
今から最後の仕上げとして文章の冒頭に一文挿入して、更新します。長いのに最後まで読んでくれた人、ありがとう。御礼に書かれた順序の種明かしでした。最初が最後です。
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タバコが不味い。風邪をひいているからだ。やめときゃいいのに癖で吸ってしまう。 人類は有史以来何故に体に対する毒を求めるのか。またゆっくり考えてみよう。数世紀前のヨーロッパでは、コーヒーを飲むと死刑にすら罰せられたそうだ。私が当時のヨーロッパに住んでいたら、一日十ぺんぐらい死刑にならないといけない訳だ。恐ろしい…
風邪が悪化してきた事もあって、バイトを少しだけ早上がりさせてもらった。ゆっくり家で休みなさい、という事なのだろうが、私は内心「これで古畑任三郎が最初から見れる」とほくそ笑んでいたものだ。これを本末転倒という。 以下、「古畑任三郎」を見ながら書いてます。 今日は犯人役でイチロー(もちろんメジャー・リーガーの、だ)が出演している。それだけでも見る価値があるとは思うが、やはり「古畑任三郎」、高いクォリティは崩していない。正直に言って「刑事コロンボ」より私はこっちが好きだ。「古畑任三郎」は、斬新なドラマでは決してないと思うが、きちんとしている。三谷組のきちんとしていて尚且つユーモアに溢れた仕事は見ていて気分が良い。 イチローと古畑が河原で野球に興じるシーンがあったが、それは多分、東京の江戸川の土手だったように思う。しかも私が生まれ育った辺りではないだろうか、と。ひょっとしたら違うのかもしれないが、とても懐かしい気持ちになった。 しかしCMに入った時にこの文章書いてるから、話が飛び飛びになるな。
という事で、今終わりましたが、面白かったです。見てなかった人にはこれ以上ないぐらい不親切な文章となってしまった。
不親切な文章を書いた挙げ句に申し訳ないのですが、体調が激しく悪いのでもう寝ます。ついに体温は38度を突破しました。みなさんも風邪などひかぬよう。
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昨日なかなか寝付けずにふとTVをつけたら、「アメリ」というフランスの映画がやっていた。ふと懐かしい気持ちになった。 強い思い入れがある映画な訳ではないが、ほんの少し、思い出のある映画だった。過去の事を何とはなしに思い出していると、切ない気持ちになった。 今の事は考えると恥ずかしいし、過去の事は考えると切ない上に恥ずかしい。思い出のメカニズムは難儀に出来ている。
そして私の風邪は良化の気配を見せない。参った参った。今日はバイトだ。休むと後が面倒なので、行かなくては。 まあいいや、頑張ってまいりやす。
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年の暮れ辺りから嫌な感じのセキが出ていた。ちょっと体調が悪いな、とは思っていたが、大した事もなかったので放っておいた。 今日の昼間にピアノの練習をしていたら、腰の辺りに鈍い痛みを感じた。あれ、疲れてるのかな?そう思ったけど、違った。夕方ぐらいから熱が出てきた。全部風邪の予兆だったみたいだ。
バカは風邪をひかないって言うのは迷信だ。私はバカのくせによく風邪をひく。
明日からまたバイトなのに。やれやれ。年明けから今日まで、わずか三日の間だけど何だかいくつか疲れる事もあったし今日はゆっくり寝よう。今の所私にとって2006年は、さほど良い年でもない。もちろんとびきり悪くもないが。
ちなみに古畑任三郎は、とても面白かった。私としては、それなりに納得のいく結末だった。 それではおやすみなさい。
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ライブの日程を載せてみました。
あんまり大々的に載せるのは恥ずかしいので、一番最初の画面の左上の辺りにある、「プロフィール」っていう所をクリックしたら見れます。
ちまちまやってますんで、お近くにお寄りの際は是非お立ち寄り下さい。
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昨日(二日)は朝からバイトだったので、どうやら結構疲れていたらしく、10時前ぐらいにコテンと寝てしまった。 そしてこんな時間に目が覚めて、変に寝付けなくなったりしているので、こうしてブログを更新している。 ちなみに明日は久しぶりの「何一つ予定のない日」だ。まだ何をするかは一切決めてないが、きっと早い時間に目が覚めるだろうし、色々出来るんじゃないかな。そうそう、唯一決めてるのは、夜九時から放送する「古畑任三郎ファイナル」を見よう、と決めている事くらいだ。楽しみだ。大好きなんだよなぁ、あのドラマは。三谷幸喜作品、面白い作品が多いのだけれど、結局あの「古畑任三郎」が一番腑に落ちるというか、三谷幸喜らしさが出ているように思える。まぁ、田村正和をあそこまでコミカルかつシニカルなキャラクターに仕立て上げた才能には、やはり敬服する。 さてさて、たまにはこんな感じにライトに簡潔に書くのも良いかも知れないと思ったので、ここらで終了。 一杯飲って、もう一度寝ます。
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昨日は、お師匠サマの家で宴会をしていた。 6歳のドラマー・鬼束大我一家と、ライブハウス・モジョウエストの店員であるKさん、そして(途中で帰ってしまったが)サックスの黒田さん(もちろんwith師匠一家)という面子であった。 最初は一緒に大晦日の格闘技のビデオを見ながら(師匠が録っていたらしい)ワイワイやっていたのだが、その内酒も入ってグチャグチャな状況に変わっていき、結果、贅沢な事にレイチャールズの秘蔵DVDを見せてもらうという事となった。イヤッホー!みたいになりながら、師匠と一緒に興奮しながら見た。アホである。でも楽しかった。
さてさて、年も明けたので今年の目標をここらで一発。本当はお酒を控えるとか、人に迷惑をかけないとか、余計な事は言わないとか言いたいのだが、そんな大きな目標を掲げてもどうせ失敗に終わるので、もうちょっとみみっちい、何とかなりそうな目標を掲げてみる。 今年の目標は……
前からもちょこちょこ書いてる事なのだが、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」とマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の二作品を熟読する事である。どちらも「これでもか」というぐらいに読み応えのある作品なので、一年かけて丁度良いぐらいかもしれない。「ユリシーズ」は、先日原文の本も手に入れた(たまたま安かった。1200円ぐらい)ので、日本語訳の文庫を辞書がわりにして今も少しずつ読んでいる。しかしまあ難しい。この私の低めのIQと浅めの知識では、早くもパンク寸前だ。まあいい、ぼちぼち行こう。
という訳で今年は音楽と文学の二本立てで頑張ります。何て幸せでお気楽なんだろう。いやいや、あんまり深刻にいくのは趣味じゃないのだ。
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色々あった事はまた後程書きますが、ありきたりな挨拶を一発。凡人なので、許して下さいね。 あけましておめでとうございます。皆様、今年もたくさん迷惑をおかけするとは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
2006年元旦
ピアニスト 福島 剛
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