ルールについて
工業地帯だ。違う、と。最近人間性だけでなく笑いのセンスもしょーもなくなっている。
ルールについて考えてみたい。ルール、そう、規則だ。
ルールなんかに縛られてたら新しい物なんか出来やしない。そういう風に考えてる人の事を手放しに批判する事は私には出来ない。私もある一時期まで(それも比較的最近まで)そう考えていたからだ。カウンターカルチャーのような物をその典型だと考えていたし、またそういった文化の担い手達はルールに縛られてなんかいないからこそ、面白いし興味深いと思っていた。破壊は美徳であり、創造への第一歩だ、と。
限られた或る意味ではそれも間違ってはいないのかも知れない。だからこそそう考えている人の事は容易には批判しがたいのだ。
だが、最近の私はルールを守る事はとても大事な事だと考えている。形而上学的に直観によって本質を捉えようとすると、(これは私のケースだが)過ちを犯す事が多々ある。大局を見失うのだ。要するに、私にはさほどの直観(直感ではなく)力というのは備わっていない。それは、或いは私に限った事ではないのかもしれないが。
ならばいかにして本質を捉えるべきなのか。本質など無い、というポストモダニズムは今は考慮に入れずに考えてみたい。
私が現時点で導き出している当面の解答は、「ルールに従う事」がその一手段である、という事だ。 サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を理解しようと思ったならば、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」とマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を“きちんと”理解するまではいかなくとも、やはり熟読する必要がある。それが「ルール」だ。 ジャズをやりたいのであれば、ルイ・アームストロングの音楽性を学ばなくてはならないし、「ブラック・クラシカル・ミュージック」である事を考えれば、シビル・ウォーや公民権運動の事も知っていた方がベターだろう。そして日々の弛まぬ訓練によって技術を研鑽しなくてはならない。これが「ルール」だ。 他者の模倣が即ちルールの遵守に結び付く訳では決してないが、物を知る為には「手順」というものがある。ジャズも文学もお手軽な物だ、と主張する人がいるのであれば、私は異論を唱えたい。お気軽な物だ、という人に異論を唱えるつもりは決してないが。
そしてそのルールから、仕方なくはみ出てしまう物が稀にある。私の脳裏に瞬間的に浮かぶ好例は、バド・パウエル(或いはビリー・ホリデイ)の最晩年の演奏である。不確かな演奏である。しかしそこには確かに人の心を打つ喪失の記憶があり、身をつまされるようなやるせなさがある。研鑽された技術による好演、表面的なルールに従えばそれが真実なのだが、ルールは時に理不尽にそれ以外の物を生み出す。何故かはわからない。だからこそ面白い。
偉大な先人達が作り上げたルールを軽々しく無視する事は今の私には不可能だ。そこからどうしても溢れ出てくる、必然性を伴った余剰物、それをいかにして捕える事が出来るか、私の考える今の目標の一つである。
二日かけて一生懸命書いてしまった。我ながら阿呆だ。
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