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2005年12月

2005年12月31日 (土)

年越し蕎麦が食べたい

今日は四条河原町グリニッジハウスでライブ(サックス黒田雅之と)&年越しセッションしてます。 大晦日だけど暇だし、格闘技も紅白も興味ないし、っていう人は是非遊びに来て下さい。あの狭い所でどうやってやろうかな。

っていう訳で見れないんですよ、格闘技。

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格闘技観戦の思ひ出

大晦日、ですか。

いろんな過ごし方があるでしょうな。家族と過ごす人、恋人と過ごす人、変人と過ごす人、一人で過ごす人… 紅白歌合戦には一切の興味もないけれど、年末の格闘技はちょっと見たい。民放各局でこぞってやるから、今日一日だけでかなりの数のカードがあるのだけれど、その中でも一番見たいのは「桜庭和志×美濃輪育久」というカードだ。多分二人とももうチャンピオンになる事はないのだろうけれど、それでも独特の「面白い」試合を見せてくれる。大好きな選手の二人なのだ。 はい、という事で以下、格闘技の事書きます。興味ない人は飛ばして下さい。

さてさて。私の好きな格闘技選手は(日本人に限って言うと)、上の二人、桜庭・美濃輪に加えて田村潔司、秋山成勲といった所だ。 知らない人は何のこっちゃ?と思うかもしれないが、私は昔UWFというプロレス団体が好きだったのだ。特に好きだったのが、船木誠勝と前田日明の二人。故にUWF解散後に二人がそれぞれ立ち上げたパンクラスとリングスという団体は好きでしょっちゅう見ていた。大体滅多な事ではTVでやらないので、WOWWOW(あのBSのヤツです)に入ってる友達に頼んでビデオに録画してもらったりしていた。 高校生の時に見た「船木誠勝×バス・ルッテン」戦は衝撃だったなあ。ガチンコの拳(パンクラスだし、顔面には掌底だったな)でルッテンが船木をバキバキにシバいていて、見てる方も「おい、ヤバいって、船木死んじゃうよ」みたいになっていた。十年ぐらい前の試合なんだけれど、多分当時はTKOとしてレフェリーが試合を止めるタイミングは今よりかなり遅かったと思う。パンパンに顔が腫れていって原形をとどめなくなってくる船木。当然何回も何回もダウンを奪われる。でもその度にフラフラになりながら立ち上がってルッテンにまたボコボコにやられてダウン→以下繰り返し…みたいな試合だ。最終的には1ラウンド中に3回ぐらいダウンしてしまい、TKOとなった(確か最後は顔面に膝蹴りだったと思う)のだが、壮絶な試合だったなあ、ととても記憶に残っている。 ガチとかヤオとか関係なしに、この試合すげーよ!ルッテン強えぇ!船木カッコいい!高校生の私はそう思った。そもそも私はヤオガチ論が嫌いなのだ。

いやあ、勢い余ってプロレスの事をいっぱい書いてしまった。今日の「桜庭×美濃輪」戦、楽しみですね。ほんの少しだけ美濃輪育久に傾いた応援になってしまうかな。でも実は私は見れないのです…その理由は、↑(次の文章)に書きます。 「プロレスラーは本当は強いんです!」これもちょっと懐かしい科白になってしまったかな。

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2005年12月30日 (金)

阪急電鉄にて

↓の文章はだいぶ頑張って書いてしまった。アイタタタ…

今日は今から高槻のJKカフェという所でギターの嶋谷信介君とライブです。楽しんでまいりやっす。

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ルールについて

工業地帯だ。違う、と。最近人間性だけでなく笑いのセンスもしょーもなくなっている。

ルールについて考えてみたい。ルール、そう、規則だ。

ルールなんかに縛られてたら新しい物なんか出来やしない。そういう風に考えてる人の事を手放しに批判する事は私には出来ない。私もある一時期まで(それも比較的最近まで)そう考えていたからだ。カウンターカルチャーのような物をその典型だと考えていたし、またそういった文化の担い手達はルールに縛られてなんかいないからこそ、面白いし興味深いと思っていた。破壊は美徳であり、創造への第一歩だ、と。

限られた或る意味ではそれも間違ってはいないのかも知れない。だからこそそう考えている人の事は容易には批判しがたいのだ。

だが、最近の私はルールを守る事はとても大事な事だと考えている。形而上学的に直観によって本質を捉えようとすると、(これは私のケースだが)過ちを犯す事が多々ある。大局を見失うのだ。要するに、私にはさほどの直観(直感ではなく)力というのは備わっていない。それは、或いは私に限った事ではないのかもしれないが。

ならばいかにして本質を捉えるべきなのか。本質など無い、というポストモダニズムは今は考慮に入れずに考えてみたい。

私が現時点で導き出している当面の解答は、「ルールに従う事」がその一手段である、という事だ。 サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を理解しようと思ったならば、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」とマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を“きちんと”理解するまではいかなくとも、やはり熟読する必要がある。それが「ルール」だ。 ジャズをやりたいのであれば、ルイ・アームストロングの音楽性を学ばなくてはならないし、「ブラック・クラシカル・ミュージック」である事を考えれば、シビル・ウォーや公民権運動の事も知っていた方がベターだろう。そして日々の弛まぬ訓練によって技術を研鑽しなくてはならない。これが「ルール」だ。 他者の模倣が即ちルールの遵守に結び付く訳では決してないが、物を知る為には「手順」というものがある。ジャズも文学もお手軽な物だ、と主張する人がいるのであれば、私は異論を唱えたい。お気軽な物だ、という人に異論を唱えるつもりは決してないが。

そしてそのルールから、仕方なくはみ出てしまう物が稀にある。私の脳裏に瞬間的に浮かぶ好例は、バド・パウエル(或いはビリー・ホリデイ)の最晩年の演奏である。不確かな演奏である。しかしそこには確かに人の心を打つ喪失の記憶があり、身をつまされるようなやるせなさがある。研鑽された技術による好演、表面的なルールに従えばそれが真実なのだが、ルールは時に理不尽にそれ以外の物を生み出す。何故かはわからない。だからこそ面白い。

偉大な先人達が作り上げたルールを軽々しく無視する事は今の私には不可能だ。そこからどうしても溢れ出てくる、必然性を伴った余剰物、それをいかにして捕える事が出来るか、私の考える今の目標の一つである。

二日かけて一生懸命書いてしまった。我ながら阿呆だ。

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2005年12月29日 (木)

今年の流行

さっきインターネットカフェに行って、皆様の書き込みを見させて頂いた。一件一件、とても嬉しかったので、私も返させてもらった。 あまり長くいるとネットカフェは料金がかさむので、この本文の方は、携帯電話「無能君」(さっき名付けた)から更新する事にした。セコいな、我ながら。けれどこの「無能君」は、メールを受け取った時には、それが誰からであろうと大きな音で「アウト!アウト!アウト!」と三回も言ってくれる。これは私が自分の人間性を鑑みた時に、「アウトか?セーフか?」という基準から見てイグザクトリー・アウトなので、メール受信の際には「無能君」に私がアウトである事を教えてもらえるように設定したからだ。そういう意味では「無能君」は大いに有能だ。

最近ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を読み始めた、というのは前に書いたと思う。彼の作品はこれまでに「A Portrait of the Artist as a Young Man(若きヤングマン、もとい、若き芸術家の肖像)」と「Dubliners(ダブりん大学生、もとい、ダブリン市民)」を読んだ事がある。面白い、と簡単には言えないが、どちらもとても興味深い作品であった。今回読んでいる「ユリシーズ」は、その後の作品「フィネガンズ・ウェイク」(←まだ読んだ事はない)と並んで彼の言語遊戯の集大成だと評されており、それゆえに読む前からやる気充分な訳だ。やったるぞ、みたいな感じで。 そしてジョイスは「Dubliners」の作品名からわかるかも知れないが、アイルランド人である。 アイルランド人作家といえば、昨今の私の大のお気に入り作家の一人であるサミュエル・ベケットもアイルランド出身の作家なのだ。今年一番たくさん読んだ本は、多分ベケットの「Waiting for Godot(ゴドーを待ちながら)」か、親鸞の(正確には唯円の著した)「歎異抄」である。イタいな。ちなみに今年一番たくさん見た映画は間違いなく「魔女の宅急便」だ。更にイタいな。 という訳で、ここの所“今年の流行語大賞”なんかがTVでも発表されているので、私の中で今年一番流行った物を発表したい。(このブログなんかも今年流行った物ですね)私の流行語大賞はもう既に決定しているのだが、それはまたの機会に。 私にとって今年一番流行った物は

ギネスビールである。 無理やりアイルランドとつながった。

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2005年12月28日 (水)

家でコーヒーを飲みながら

おはようございます。 私は今日は三時からアルバイトなので、今から五時間ちょっとピアノの練習をして、その後七時間ばかり労働をして来ようと思うのです。 帰って来たらクタクタであっという間に寝てしまうと思うのです。その間、きっとタバコ(280円)を買うと思います。缶コーヒー(120円)も多分一本買うと思います。充実、なんて感覚はたった400円もあれば買えそうです。これまた安上がりな事で。 一日のスタートです。

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2005年12月27日 (火)

自意識過剰なカレー

何回か前にフィギュアスケートの村主章枝が自意識過剰な感じがしていけ好かない、と書いた。そして確か今日、カレーを作ったと書いた。その二つの事を足し算して今日は書きたい。一つ書いたらもう一つ生まれて、その二つが合わさって別の物が出来る。おお、低俗な弁証法みたい。

まず、何故に自意識過剰な人がいけ好かないか、という所から。それはとても簡単な理由。私自身がとても自意識過剰だから。つまり、近親憎悪の一種だ。自分によくわかる欠点の一つだからこそ、逆に腹立たしく感じる。誰もお前の事なんか注目しちゃいねえって、この「その他大勢」の一人が!って、普段自分に向かって吐いているように、心中で毒づいてしまう。もちろん、前述の村主章枝なんかは(彼女が実際に自意識過剰かどうかは別にして)今や注目される存在になった訳だけど。

そしてカレー。どうしてここに結び付くのか。 昨日、カレーを作ろうと思って近所のスーパーでじゃがいもと玉葱と鶏肉とカレールウと、ついでにビールを一本買った。普通の買い物である。問題なのはこれらの買い物の組み合わせだ。どこからどうみても「カレーを作ってビールで一杯飲ろう」という人間の買い物だ。

そうだ、察しの良い方ならもう気付いたとは思うが、私はこういった買い物の際に、私の生活を多少なりとも店員という他人に知られる事に、何とも言えない恥ずかしさを感じていたのだ。もちろん嘗て、ではある。過去形で書く事の出来る話だ(だからこそ今こうやって衆目の元に笑い話として書ける)。 笑止。誰も私の食卓なぞに何の興味など抱いていない。全くもって笑わせる話だ。

西洋が「罪の文化」なのに対して、東洋(特に日本)は「恥の文化」だという。こと私に限って言うならば、それは当たっている。すぐに恥ずかしいとかみっともないとか思う「思考の習慣」みたいな物がある。

でも最近図々しくなってきた。まあいいや、そもそも恥ずかしい人間だしって開き直ってしまう部分が大きくなってきた。

のんびりいこうぜ。最近の私の口癖だ。のんびりやります。三歩進んで二歩下がる、みたいな感じでね。

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億劫

今日も雪がチラついている。最近とても寒い。ので、なかなか起き抜けに服を着替えられない。私服で外に出掛ける時は、ほとんどパジャマの上に上着を羽織って出掛けてしまう。大人として終わっている事は間違いないが、多分人としても終わっている。

昨日の晩からにかけて、カレーを作った。玉葱を丸々六個もいれたやつ。おいしく出来た。

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2005年12月26日 (月)

クリスマスプレゼントとビール

クリスマスプレゼントとビール

私の母は極めて信心深いクリスチャンなので、クリスマスというのはその日自体がプレゼントなのだ、と小さい頃から言われて来た。神が全世界の人々を救う為に生まれて来たその事に感謝する日なんだ、と。 ふーん、と思って小さい頃は聞いていたけど、或る時期から「そんな事ないんじゃねえの?」と思うようになった。まあそれはいいや。 プレゼントなんか交換しなくてもいい日なんだという母の意見には賛同していたが、今年はプレゼントをもらった。サックスの黒田さんの奥さんから、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」という小説をもらった。いやあ、嬉しかった!すごくほしかったんだ。今一番ほしかった物かも知れない。かなり長い小説なので、この冬全てをかけてじっくり読もうと思っている。わくわくしている。この本を読む前のわくわくした感じと、読んでいる最中のページが一枚ずつ減っていく事に対して感じる一抹の寂しさって堪らなく好きだ。

それともう一つ。「ユリシーズ」の上に(「檸檬」を意識して)置いたビールはキリン・クラシックラガーだ。ずっとドライ派だったのだけれど、最近ラガーが好きだ。「ビール飲んでる」っていう気になる。全然関係ないのだけれど。

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見れないけど

前にも少し書いたけど、私の携帯電話は比較的無能だ。このブログに文章を投稿する事は出来るのだが、ブログの全体を見る事が出来ないので、折角寄せて頂いたコメントを見れないのだ。何だよ、もう、と少し残念に思う。 というのも、このブログを始めてみて約一週間、少しずつ欲が出て来たのだ。自己完結しときゃいいだろ、と半ば諦観のような物を抱いて始めたのに、そこから欲が出て、見てもらった人のコメントを見たりするのが楽しみになって来た。誰かが私のしょうもない文章を読んで、「よっしゃ、俺(私)も一言物申してやるか」という気持ちになってもらってるのが、何だかすごく嬉しいような恥ずかしいような気持ちになるのだ。それが私に対して肯定的な意見であろうと、否定的な意見であろうと、だ。所謂「構ってクン」みたいな一面が私にあるのだな。でもそれでもいいや、事実だもの。書いてくれている人、本当にありがとうございます。 で、とても気になるから、バイト先のパソコンから見ようと試みたが、基本的には私用に使ってはいけないパソコンなので、誰も見てない所を見計らってこっそり見ようとした。でも駄目だった、すぐに他の人がやってくるので、パソコンの右上の×マークをクリックして、「何も見てませんよ〜、仕事してますよ〜」というフリをした。アイ・アム・ア・チキン。何だかこっそりエロサイトでも見てる人みたいだ、と思った。 でも、管理画面を一瞬だけ見る事が出来て、そこのコメント数の数字が三つ四つ増えていた。わー、嬉しいー。今度ゆっくりパソコン触る時に見ようと思う。コメントも返そうと思う。それも楽しみの一つなんだ。このブログという玩具は(今の所)当初の私の予想以上に私を楽しませてくれる。

という所でちょっとこの辺で一旦区切る。全く別件で書きたい事があるので、それを今から改めて書こう。

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2005年12月25日 (日)

有馬記念は

有馬記念は、ディープインパクトが負けたらしい。実はまだ見ていないのだ、私らしくないが。 更に私らしくない事に、先程までフィギュアスケートの大きな大会をTVで見ていた。普段あまり見ないスポーツだが、とても面白かった。原因は村主章枝だ。以下、完全に素人の視点からだが、記す。 結果から言うと、彼女が優勝した。15歳の浅田真央は、かなり素晴らしい演技をしたと思う。天才が好き勝手にのびのびとやってた、という印象。「アタシ、オリンピックとか関係ないしー!」っていう感じ。とても見ていて爽快だった。安藤ミキ(漢字知らん)は明らかに精彩を欠いていた印象。浅田真央とは対照的に、余り滑るのが楽しくなさそうだった。 そしてそういった若手の追撃をかわして、優勝の座についたのが村主章枝だ。どこからどうみても、文句ナシ、ぶっちぎりだったというのが私の印象だ。実は私は彼女があまり好きではなかった。自意識過剰、というか、何か変な芝居臭さが鼻に付いた。ムカつくタイプの女だな、そう思っていた。だが、今日の彼女には、他の選手にはない、彼女だけの雰囲気という物があった。それは、極端に言うと、「死ぬ覚悟」のような物だったのでは、と私には感じた。戦場に赴く兵士のような、そんな異彩の緊迫感を彼女一人だけが放っていた。最近のスポーツ選手の中で、そういった緊迫感を持っているのは、横綱朝青龍ぐらいではないだろうか。私の読みでは、彼は相撲の一番一番を命のやり取りだと思っている。そりゃあ、一年間完全優勝もするよ。そんなトビきり高いテンションを、今日の村主章枝は持っていた。彼女の演技中、背筋を鋭く走る物が数度あった。フィナーレで、何かが弾けた。彼女の顔が、次第に戦士の顔からいけ好かない普段の小生意気な顔に変わっていく。彼女が天を仰いで「神様…」と呟いたのが口の形から見て取れた。彼女の今日の鬼気迫った演技は、十中八九 彼女自身の努力の賜物なんだろうと思う。だが、或いはどこかに神様はいるのかも知れない。そうであれば素敵だ。そんなことを思った。

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蕎麦屋

結局、黒田家に泊まったまま、朝の七時まで酒を飲み、先程起きて、今京阪電車に乗っている。今日は、世にも珍しい「散歩をするバイト」なのだ。一時の集合時間に間に合うだろうか、今からヒヤヒヤものだ。 酔って起きると蕎麦が食べたくなる。中書島の駅に蕎麦屋があったけど、急いでいるのでスルー。 関係ないが、中島みゆきの「蕎麦屋」という歌があるが、それがすごく好きだ。知ってる人いるかなあ…

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2005年12月24日 (土)

ひとり上手

と呼ばないでー、か。ついついひとり遊びしてしまう。 今日は久しぶりの完全お休みデーなので、12時に起きて、起き抜けにデブ猫にまつわる駄文を書いてから、ずっと今まで家でピアノを弾いていた。楽しかった。ピアノの練習を苦に思った事ってほとんどない。ホント、オメデタイ人間でございます。今の所、このブログの更新もまだ苦になってはいません。 今から、サックスの相方の黒田さん一家(奥さんと子供たち)と食事に行く所だ。京都駅までの道中、手持ち不沙汰なので携帯をいじりながらブログを更新している。 書く事は山ほどあるし、ネタには困らない。全て下らない事だけど。ええ、わたくし、下らない事だけを考えて生きてるチンケな野郎なんです。 という事で、本日12月24日午後六時前後の、「今私の聞きたいサックスプレイヤー・ベスト5」を発表する。ちなみにこれは明日になれば全く異なったランキングになるだろう。

五位は、デクスター・ゴードンかなぁ。「アワマン・イン・パリ」というレコードがあって、それがすごく好きだ。ピアノはパウエル大先生。バップってステキ。 四位はジャッキー・マクリーン。個人的には彼のリーダーアルバムよりも、ソニー・クラークの「クール・ストラッティン」の中での彼の演奏が今聞きたい。 三位は“ファットヘッド”ニューマン。私はレイ・チャールズ様のレコードでよく聞くのだけれど、好きなんだよなあ、何とも言えず。 二位は、シドニー・ベシェ。私にとってソプラノ・サックスって言ったらシドニー・ベシェなんだ。音デカっ。 一位は“ラサーン”ローランド・カーク。理由、家を出る時に聞いてたし、すごいし、カッコいいから。

はい、一人遊び終わり。京都駅着いた。

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デブ猫

デブ猫

君は太り過ぎているな。私も最近少し腹周りがたぷついて来たので、手放しに非難したりは出来ぬが、君が野良猫という立場である事を考慮にいれると、いささか太り過ぎではなかろうか、と思うのだがね。 君の好きな食べ物は何だい?やはり魚が好きなのかい?まだ鼠は取るかい?自由になりたくないかい? 私は生まれ変わったら猫になる事を切望している。君達のように私も生きていたいのだ。 私はまだ人間なので、色々不十分だ。そういった意味では君達猫にかなわない所もたくさんあるのだ。我々人間と君達猫の決定的な違いは何だと思うかね?それは妬みという気持ちかもしれない。それは焦りという気持ちかもしれない。私は絶え間なく自分を襲う自己憐憫の情をどうにかしたいと考えておるのだ。

↑という会話を脳内でしていたら猫はどこかへ行ってしまった。バイバイ。

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帰ってきた

ウルトラマン。違う、と。ライブが終わって帰って来た。 今日は結構楽しく出来たな、と思ったのと同時に、ああ、気負いみたいな物がなくなってきたなあ、と思った。ライブする時に、「今日はライブだ、頑張るぞ!」って力が入ると、あんまり良いライブになった記憶がない。日々きちんと練習して、安定した精神状態で臨んで、「じゃ、ぼちぼちやりますか」みたいの。そういう時って良いライブになったりもする。もちろんならなかったりもする。飯を食うみたいに、クソをするみたいに、息をするみたいに本当に自然に音楽が出来ればいいな。誰も「よし、息吸うぞ!」ってりきんだりしないでしょ。もちろん、一生懸命やるっていうのは、変えたくないんだけど。

ローランド・カークのCDを聞いている。循環呼吸で二分ぐらいずっと音を伸ばし続けたり(最長は四時間ぐらい伸ばしていたらしい)、とエゲツない所もたくさんあるけど、とってもゴキゲンだ。「聖者の行進」が入っていて、カッコイイ。カーク、すごい。負け犬臭の漂ういいちこの緑茶割りをまたもや飲みながら聞いているんだけど、このCDが終わったら寝よう。寝る時は大体いつも「明日なんて来なきゃいいのに」と思う。明日はクリスマスなので、特に思う。しゃらくせえ、しゃらくせえ。街中のライトアップされた飾り付けとかを見ると、理由もなく大声を出したくなる。でも頭のイカれた人だと思われるのが嫌なので、大声は出さない。 サンタさん、今年のクリスマスプレゼントには「自分に厳しく他人に優しい私」か「おとなしく黙って、余計な事を言わない私」にして下さい。「場の空気を読む能力」でも構いませんぜ。

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2005年12月23日 (金)

ライブ前に

グリニッジの近くに早く来すぎてしまったので、まんが喫茶で時間潰し。そのついでにブログも更新。何だか「出来る」人みたいだ。いや、違う。単に暇なんだ。万歳マーヒー。

あんまりブログって実名を出したらいけないらしい。でも実名全開でいきます。

昨日のBGMの仕事の時は、ずーっと小さい音で演奏していた。一緒にやっていた後輩のタナカマサカズ君は、「腹筋が痛くなる」と言っていた。小さい音の方が腹筋を使うらしい。それ以上に、すごい雪だったので楽器の運搬が大変だったんだけど。

今日のグリニッジハウスは、ピアノあるしその辺は楽ちん。譜面の束だけ持って行くだけでいいんだもの。

それではぼちぼち時間も近付いてきたので、行ってきます。今日も良い演奏が出来る事を祈って。

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二日酔いで

二日酔いですな、そりゃ当然っていうぐらい昨夜は酒を浴びました。もちろん今朝の第一声は舌打ちの後に小さな声で「死ね、俺…」ですよ。嬉しくなったからといってバカバカ酒を飲んではいけません。

今日は四条河原町のグリニッジハウスという所でサックスの黒田雅之氏とライブです。頑張ってきます!

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2005年12月22日 (木)

煩悩全開

今日は、四条烏丸のごっついビルで、お医者さん達の懇親会みたいな所でBGMを弾いていました。初老の方が多く、みなさんとても感じのいい方々でしたが、明らかにお金をたくさん持っているオーラがぷんぷん漂っていました。家でぐわんぐわんお金がうなっている音が聞こえて来ました。いや、それは嘘です。余裕って、いいなあ。俗物である私は、ふとそんなことを考えました。 今からお師匠サマの家で飲み会です。楽しんでまいります。

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書き忘れた

今日あった嬉しかった事。昨日の日記に少し書いた香川の先輩と電話で喋った。就職が「ほぼ」決まった(本人曰く、後は五個のハズレが入っている計百個のくじ引きをクリアすれば…との事)らしい。会った事も喋った事もない人が例えばノーベル賞をとっても知ったこっちゃないが、よく知った人のそういう話は何だかとても嬉しい。「よし、俺も!」っていう気持ちが全く湧かないと言ったら嘘になるのだけれど、遠くばっかり見ても仕方がない。私は私でやらなきゃいけない事が目の前に山積みだし、それらはジャンプして飛び越す事は出来ない。好き勝手、横着してきたツケだ、一つ一つ片付けていこう。 他人の不幸を望んだり、他人の幸福を妬んだり、そんなこと考えてる奴は最低だと思うが、私は時としてそういう最低な感情を抱く事がある。私は相田みつをじゃないから「いいじゃないか、人間だもの」とはならない。大好きな親鸞でもないから、「いわんや悪人をや」ともならない。器の小さな人間なので自己嫌悪でうじうじする。 でも今日、件の香川の先輩の話を聞いてとても嬉しい気持ちになれた。努力しても報われない人が多分にいる中で、自分の好きな人が正当に努力を評価された事に喜びを覚えた。ヤッタネ。 何だか、本当に私は「ちゃんとした」人間ではないので、こういった普通の人にとっては当たり前の事で一喜一憂してしまう。他人の幸福を心から喜ぶ、という感情機能は、私にとっていささかエクストラな機能なのだよ。 本当に気分が良い。という事で今日は、大のお気に入りの「Ella and Lois」というレコードを(深夜なので)小さな音でかけながら寝る事にする。このレコードを聞いてると、やはりとても幸せな気持ちになれる。「テンダリー」の最後の、エラの「冗談スキャット」が最高なんだ。それではおやすみなさい。

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モンクって

モンクって

ふと見たらイカついな。この風貌で既に変人ぶりがイタいぐらいに伝わってくる。テレビやなんかで「私って変わってるってよく言われるんです〜」とか言ってるネエチャンは、あんまり変わってない。それに比べると(比べるまでもないかな)モンクってオッサンは、さぞや変わり者だったんだろうなあ。 でもモンクの事は今日はもう書かない。今日は疲れてるから。モンクの事を書くのは、私にとってはエネルギーのいる事だから。でも今日の疲れは心地良い。色々やった挙句の疲れだしかな。一番疲れるのは、何もせずに一日を終えた時。「あれ、今日俺何もしてねえじゃん。うわあ、死ねばいいのに…」いやあ、どっと疲れる。正直に言うと一ヵ月〜二ヵ月に一日ぐらいそういう日がある。そういう日の頻度をせめて半年に一日ぐらいまでに減らすのが来年の目標の一つだ。それぐらいなら達成出来るんじゃないかな、禁煙という目標は毎年ポシャるけど。 今日、街中で見かけたチラシに、「どうしたら戦争がなくなるか?」と書いてあった。即座に頭の中に「無理」の二文字がでかでかと浮かんだ。多分、あっても意味のない物が一番最後まで残るんじゃないだろうか?違うと良いけど。

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2005年12月21日 (水)

やれば出来るじゃん

パソコンで書いている。なので、寄せて頂いたコメントも見る事が出来た。拙いながら返事も書けた。で、ついでに確かリンクを貼れる筈だ、と思ってパソコンと格闘したら、何とか出来た。やったね。機械音痴だという自覚はあったのだけれど、やれば出来るじゃん。

もちろん、リンクを貼る、という事は相互の宣伝効果も多少期待できるのだろうが、ちょこちょこ書いているように、このブログの在り処はまだ知り合いにしか教えてないので、宣伝効果というよりは私自身の利便性の為かな。よく見るホームページをいちいちヤフーやらグーグルやらで探さなくてもいいように。それと、文章の脇のスペースが寂しかったから。それぐらいの感覚。

でも、幾つか挙げたホームページはどれも面白いものが多いから、興味あるページは是非見てほしい。特にどれが、という事は言いたくはない。何だか不慣れな事を完遂したものだから、とても充実感がある。と、いう事でついでに日記も更新してしまった。

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午前三時三十分

今日(正確には昨日だな)は幾つか精神的に滅入るような事が続いた。なので、現実逃避の一手段として、寝ていた。帰って来てすぐ、夜の10時には寝ていた。というよりも、寝てしまっていた、という方が正しいのだけれど。そして今起きた。変な時間に目が覚めてしまった。午前三時三十分である。

携帯電話がチカチカ光っていて、どうやら電話があったらしい。香川に住む、大学の先輩からだった。寝ていて受け取り損なった。明日またこちらからかけ直そう。電話の彼は、私が京都に来たばかりの頃からよく面倒を見てくれた人の一人だ。客観的に見ても主観的に見ても、私には他人より大いに劣っている部分というのが幾つもあって(特に十代から二十代前半は本当にひどかった。最近少しずつマシになってきた自覚もあるが、それでもまだ平均点以下だな、努力せねば)、その為に周囲の人間には迷惑をかける事も多いのだが、それでも私との関わりを継続してくれる人に対しては、何とも言えない感謝の念を抱く。もちろん、私自身がその人たちの事を好きだ、というのが根底にあるのだが、好意と感謝の念がごちゃまぜになってどうしても頭が上がらない、そんな人が何人かいる(その筆頭は両親なのだけれど)。香川の先輩もそんな人の一人なのだ。

午前四時になった。携帯電話からの更新は面倒くさい。ここまで書いて三十分か。最初に書いた時はパソコンで書いたのだけれど、以来三回ぐらい連続で携帯電話から更新している。ちなみに私の携帯電話は比較的無能なので、インターネット接続は出来るが折角作ったブログのページは見る事が出来ない。今は暗闇の中に向かって拳銃を撃つように、携帯電話から更新している。次回パソコンを見るのが少しは楽しみだ。 午前四時十分。先程からお酒を片手に携帯電話をピコピコいじくって書いている。焼酎いいちこの緑茶割りだ。これ以上ないというぐらいの貧乏酒だが、案外おいしい。今日は書かないけれど、このいいちこ緑茶割りには大切な思い出もある。でも一杯だけにしておこう。酒と書いてキチガイ水と読む、私には過度の酒はよろしくない。わかってるんだったら始めから飲まなきゃいいんだけど。

一回目に書いた文章があまり気に入っていない。喋り上手と聞き上手とか何とかの話だ。いつでも自分で読み返せるようにプリントアウトしたのだけれど、何だかとても読みにくい。でもこれは一つの記録としてブログ上には残しておこうとは思うが、文章としては稚拙だな。「読ませる」文章ではなくて、「書いてる」文章だ。 高級ワインの後はさつま白波を、フランス料理の翌日は王将の豚キムチ定食を、私はそうやってバランスを取るようにしている。要するに、気取った自分は嫌いなんだけれど、気取ってしまう事というのがたまにあって、そういう事の後はなるべく意識的にブサイクの世界に戻ろう、という訳だ。初回の文章がついつい気取ってしまったから(それも結果的には悪い意味で気取ってしまった)今日は書くなら出来るだけブサイクに書こうと思ったのだけれど、やはりどこか気取ってるな。欲しい物はあまりたくさんないけれど、捨てたい物はたくさんある。筆頭は「余分な自意識」、「余分なプライド」。いらない物が多過ぎる。

時計は四時四十分を指している。コップのお酒も残り一口ぐらいになった。今日はこの辺にしておこう。 窓の外はまだ暗い。みんなが眠っている。私の耳には沈黙の音以外何も聞こえない。明日はいい日になるだろうか。

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2005年12月20日 (火)

やっぱり

やっぱり

いっつも言う事聞かないから、嫌いな時もあるけど、やっぱり…

やめとこ。陳腐になるし。

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2005年12月19日 (月)

最初の内だけ?

最初の内だけ?

始めたばっかりなので、まだこまめに更新したいという欲求も少しはあり、ついでに携帯からも更新できるらしいのでそのテストも兼ねて。何だか怪しげな冬の木。写真もちゃんと載るのかな?

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最初に

仮に「なぜ音楽をやっているのか?」と聞かれたとする。
答え方には幾つかの選択肢が存在すると同時に、逆説的な言い方になるがまだ私には明確な答えを導き出せない。
しかし、当面の結論の内の或る一つとして「私が喋りたがりだからだ」という答えが存在する。恥ずかしながら、と付け加えた方が良いのかも知れないが、私は喋りたがりだ。良くも悪くも。

音楽家を極めて大雑把に二分すると、比喩的な意味になるが、喋り上手な音楽家と聞き上手な音楽家に分けられる(セロニアス・モンクやグレン・グールドのような特異な例を除いて。彼らは「黙り上手」なのではないだろうか)、と私は思う。勿論一流の音楽家はその両面を併せ持っているが、今はそこには触れずに単純に二分化しよう。
喋り上手と聞き上手、という異なった音楽家同士の邂逅が思いもかけない名演を生む事がある。オスカー・ピーターソン(p)とレイ・ブラウン(b)の一連の録音などは、そういった良い邂逅の有名な例の一つだ。どちらが喋り上手でどちらが聞き上手なのかは言うまでも無いだろう、ピーターソンの溢れ出んばかりの言葉達に、レイ・ブラウンが絶妙な相槌を打つ。その相槌によってまた更なる言葉が発せられる。その後、ピーターソンがニールス・ぺデルセン(b)をベーシストとして迎えた時には、「喋り上手」同士の新たな閃きがそこに現れた代償として、レイ・ブラウンとの間にあったような和やかな空気は失われてしまった。同じピアニストとベーシスト、という事で言えば、ビル・エヴァンス(p)とスコット・ラファロ(b)という組み合わせもこの「喋り上手と聞き上手」の組み合わせで考えて良いのではないだろうか。ただし、この場合は、ラファロの言葉をエヴァンスが引き出している、というケースが多いのだが。
それとは対照的に、喋り上手なミュージシャン達が肩を並べて、信じられないサウンドを作り出したケースもある。私の大好きなジョン・コルトレーン・カルテット(コルトレーン(sax)、マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds))などもそうだし、チャールズ・ミンガス(b)・グループにエリック・ドルフィー(様々な笛)、“ラサーン”ローランド・カーク(それ以上に様々な笛)が同時に在籍した時もそうだ。言葉を発したくて仕方がなかった男達の、たまらなく猥雑で、それでも美しすぎる音楽がそこには在った。

翻って私自身を彼らに照らしてみる。その行為自体がおこがましく、そして馬鹿げた行為ではあるのだが。私は先刻自らを「喋りたがり」だと称した。その事に間違いはない。そして、私はまだ「喋り上手」ではない。ここが決定的なダメージを私に与えるポイントだ。言いたい事は音楽の中に全て込めれば良い。自らの確固たる意思に反する物には抗えば良い。何故自分が喋りたいのかを冷静に分析し、他の喋りたい人間の為にもスペースを空けられれば良い。これらは皆、先に挙げた喋り上手な音楽家達が持っていて、私が未だ持ち得ない特質だ。

挙句の果てにこうして自分の思いを文字に(音にではなく!)直している。音楽家の風上にもおけないと我ながら思う。その通りだ、私はまだ「音楽家」ではない。
暫し自問する。けれどそれはそれで結構な事なのではないだろうか。文字という媒介を使って、私には何かを喋りたいという欲求がまだあるのだ。なくなったら口を閉ざせば良い。

あまり不特定多数の人にこういった心情吐露をするのも失礼だと考えたので、当面はこのブログの在り処は私が教えたい人にしか教えない事にした。この点に関しては、どう変化するのか、私にもわからない。どこかで図々しく開き直るかもしれないし、或いは更に殻に閉じこもるかもしれない。
最初だから、という理由で決意表明のつもりで一生懸命書いた。でも、あまり余所行きの文章にならないようにしよう、という目標もある。そして毎日更新するつもりはあまりない。それでも良かったら、たまに見てやって下さい。

                                      
                                  福島 剛

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